1993年5月15日、Jリーグが開幕した。前日の雨が上がり、昼過ぎからは国立競技場に向かう人たちで千駄ケ谷駅近辺はごったがえしていた。試合に先だって『TUBE』のボーカリスト、前田亘輝が君が代を独唱。Jリーグの公式テーマ曲をギタリストの春畑道哉が演奏し、上空にレーザー光線が交差するという華やかなオープニングセレモニーだった。

 

 そして、Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎が開会宣言を行っている。これまでになかった新時代の到来を感じさせる演出だった。

 

 セレモニーの後、ヴェルディ川崎の三浦知良、ラモス瑠偉、武田修宏、横浜マリノスの木村和司、水沼貴史、そして元アルゼンチン代表のラモン・ディアスたちがピッチに現れた。

 

 有料観客数は5万9626人。それまでプロ野球の観客数は水増しが当然で、端数のない「概算」で押し通してきた。一桁まで正確な数字を発表することはJリーグの先進性の表れでもあった。

 

 稲川朝弘はスタジアムの観客席に座り、目の前に広がる眩い世界に圧倒されていた。しかし、自分はこの流れに乗れなかったことを痛感していた。

 

 名古屋グランパスには元イングランド代表のストライカー、ゲイリー・リネカー、ジェフユナイテッド市原には元ドイツ代表のピエール・リトバルスキー、そして鹿島アントラーズのジーコ――。

 

 各クラブは競うように、世界中の名のある選手を日本に呼び寄せていた。本来ならば、外国人選手エージェントを志した稲川にとって、絶好の好機だったろう。しかし、開幕時に1人の外国人選手さえ連れて来ることができなかった。

 

 稲川はこう振り返る。

「今から考えれば視野が狭かった。自分はヴェルディで勝負しようと思ったので、他のクラブは眼中になかった。本当は色んなチャンスがあったのかもしれなかったのに」

 

 稲川はまだ若く、Jリーグ立ち上げに関わった男の中では遅れてきた男であった。

 

 もちろん手をこまねいていたわけではない。

 

 この年、ブラジル人のアジウソン・エレーノという選手の移籍に動いている。62年生まれのアジウソン・エレーノは、リオの名門クラブであるフラメンゴとプロ契約を結び、アバイ、クリシューマ、グレミオなどを渡り歩いていた小柄なミッドフィールダーだった。しかし、すでにヴェルディには三浦知良の父親、納谷宣雄が代理人として食い込んでいた。交渉途中でこの移籍は頓挫することになった。

 

 生きた広告制作会社での経験

 

 ヴェルディは「よみうりランド」に隣接したグラウンドを使用している。三浦知良たちの練習見学、サインを求めるために連日多くの人間が詰めかけていた。そして真新しいクラブハウスにはスポーツ新聞などの番記者が行き交っており、稲川も頻繁に顔を出していた。

 

 そんなある日、顔見知りとなっていた1人の選手から相談を受けた。コマーシャルの話を貰っているのだが、自分はその世界に疎い、どうすればいいのか悩んでいるというのだ。

 

「元々は競輪の中野浩一さんと(ヴェルディの)戸塚(哲也)さんが知り合いで、出てみないかという話から始まったと聞いています」

 

 世界選手権10連覇という記録を残していた中野はカツラの「アートネイチャー」という企業のテレビコマーシャルに出演していた。

 

 中野が声を掛けた選手――鋤柄昌宏もまだ若かったが、頭部が薄くなっていた。

 

 鋤柄は筑波大学時代に日本代表Bチームに選出され、88年にヴェルディの前身である読売クラブに入団していた。しかし、選手層の厚いヴェルディではJリーグ開幕前のナビスコカップで1試合、93年の同カップで3試合しか出場機会はなかった。初年度のJリーグでは出場機会はなかった。Jリーグという太陽が燦々と輝いていた。人気クラブであるヴェルディの一員ということで、日陰でひっそり生きていた男にまで商品価値が認められるようになっていたのだ。

 

「当然、ガラ(鋤柄)が(テレビコマーシャルの)相場を分かるはずもない。それでぼくがガラに代わってアートネイチャーと折衝するようになったんです」

 

 ここで広告制作会社で働いていた稲川の経験が生きることになった。

「もちろん(テレビコマーシャルの)専門家ではなかったですけれど、こういう条項が必要だとか、大まかなことは分かりますよね」

 

 また、強化部の小見幸隆と親しくなり、彼の「ザ・ヴェルディマインド」という著作制作を手伝っている。ゆっくりではあるが、自分なりのやり方でサッカー界に橋頭堡を築いていたのだ。

 

 Jリーグ初年度の93年シーズンは12月15日に終了。年が明けた94年1月に前期優勝の鹿島アントラーズと後期優勝のヴェルディが対戦している。ヴェルディは1試合目を2対0、2試合目は1対1の引き分けで初代チャンピオンの座に就いた。

 

 シーズン終了後、稲川はある日本人選手の移籍を手掛けることになる。それは前例のない「移籍」だった――。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。最新刊は『ドライチ』(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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