学ぶのはいいことである。しかし、学んでばかりいても進歩はない。いつかは自らの足で立ち、歩き始めなければならない。W杯終了を一区切りとしよう。Jリーグ創設25年にして、やっと立ち上げからの日本人代表監督が誕生した。森保一、49歳。まずはそれを歓迎する。

 

 外国人を初の代表監督に選んだのはJSL総務主事(当時)の要職にあった川淵三郎である。それは時代の要請であり必然だった。

 

 横山謙三が代表監督の任にあった時のことだ。カズ(三浦知良)とラモス(瑠偉)が代表入りした。その直後、協会幹部と代表選手がテーブルを囲んで会食した。

 

 選手たちは食事のメニューを注文する以上に待遇改善のメニューを注文するのに熱心だった。

「おカネをもらわないのがアマ? もらうのがプロ? そんな単純な問題じゃない。これは、あくまでも精神的な問題なんだ」。そう反論して、その場をしのごうとした川淵だが、腹の中は違っていた。「コイツら、いいこと言うなァ…と感心していましたよ」。次にこう考えたという。「とはいえ、いきなり日本人のプロ監督というのは無理がある。彼らと互角に渡り合うには、もう外国人監督しかなかったんです」

 

 この方針により誕生したのがオランダ人監督のハンス・オフトである。そのオフトが無名の森保を見初め、秘蔵っ子として育てたのは広く知られるところだ。

 

 その頃、川淵は3代までは外国人に頼るが、そこから先は日本人の方がいい、と思っていたという。Jリーグの成熟を見越した上での戦略だったのではないか。だが、4年先を見据えての日本人監督が誕生するまでには、先に述べたように25年もかかった。

 

 選手のプロ化に比べると指導者のそれは、かなり遅れた。無理もない。契約書という紙の上ではプロになっても、ちょっと前までは丸の内の大企業に籍を置いていた者に対し、退路の橋を断ち切るような凄みある采配を求める方が酷といえば酷だった。

 

 監督とは因果な商売である。クラブであれ代表であれ、就任と同時に辞任か解任へのカウントダウンが始まるのだ。「任期があるからと言って安泰だとは思っていない」と森保。その覚悟に一票を投じたい。

 

<この原稿は18年7月31日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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