息苦しいと感じた次の瞬間、目の前が真っ暗になった。そこからのことは、あまり覚えていない。1987年夏のことである。

 

 翌年に行われるソウル五輪の予備取材のため、私はソウルにいた。ひととおり予定していた取材を終え、釜山に行くためソウル駅に向かった。恐ろしく暑い日だった。

 

 駅に着くなり、全身の力が抜けた。構内は夏休みの旅行客でごった返しており、窓口に続く例は、とぐろを巻いたヘビのように何重にもうねっていた。

 

 当時、駅構内に冷房はなく、モワンとした空気が肌にまとわりついた。サウナに閉じ込められたような気分だった。目の前にブラインドが降りてきたのは、そんな時だった。

 

 その頃、「熱中症」という言葉は、まだなかった。病院で私は「夏カゼ」と診断された。平熱に戻るまでには3日かかった。

 

 猛暑が続いている。2年後の東京五輪・パラリンピックは大丈夫なのか。選手の健康面を配慮してマラソンは午前7時スタートとなったが、8時を過ぎれば気温は30度超えが予想される。

 

 猛暑じゃなくても選手は倒れることがある。スタート時の気温は23度だった。08年北京五輪。女子マラソンの土佐礼子は25キロ地点で精根尽き果てた。バタッと倒れたわけではない。よろめく土佐をヘッドコーチが抱きかかえたのだ。ボクシングで言えばタオル投入である。中足骨の炎症により、走れる状態ではなかったことが後に判明した。

 

 大変なのは、それからだった。すぐに係員が駆け付けるのかと思ったら誰も来ない。土佐は大通りの脇に放置された。気温が急激に上昇し始めた。見ればピクピクと体が痙攣している。こうなると取材よりも人命優先である。私たちは“バケツリレー”のようなかたちで交代で土佐をおんぶして救急車にまで運んだ。救急車は遠くで信号待ちしていたからだ。

 

 東京はこれを反面教師にして欲しい。そのためにも、これだけはお願いしておきたい。日曜の午前、テロ対策を理由に、北京のまち中のビルは全て閉まっていた。もし沿道のビルがいくつかでも開いていれば、冷房のきいた部屋で休ませることができた。路上に放置されることはなかったのである。

 

 選手のみならず熱中症にかかった沿道の観客を介抱するためにも、外気を遮る空間は必要だ。既存のビルをエイドステーションとして使うのはどうか。現実的な対応が求められる。

 

<この原稿は18年8月8日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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