本日から開幕した全国高校野球選手権大会。今年は100回目の記念すべき大会だ。高校球児たちの熱き戦いが感動を呼ぶ。今年はどんなヒーローが出てくるのか。高校野球の怪物と言えば、作新学院(栃木)の江川卓である。“ホップするストレート”を投げる江川の高校時代を記した原稿を、読み返そう。

 

<この原稿は2011年10月号『文藝春秋』に掲載されたものです>

 

 後にプロ野球の広島で活躍する達川光男は広島商3年の春、レギュラー捕手として甲子園に出場した。今から38年前、1973年のことだ。

 

 この大会を迎えるまで春夏合わせて5回(現在は7回)の全国制覇を誇る広島商は高校球界屈指の名門だが、この春に限っては影が薄かった。

 

 大会の話題をひとり占めしていたのは作新学院(栃木)のエース江川卓。なにしろセンバツ出場を決めた前年の県大会と関東地区大会において全7試合で1点も失っていないのだ。公式戦での連続無失点イニングは53にまで伸びていた。

 

 センバツは開幕前の抽選会で決勝までのトーナメントの組み合わせが全て決まる。順調に勝ち進めば、広島商は準決勝で江川擁する作新と当たることになっていた。

 

 作新は大会初日の第一試合、つまり開会式直後の試合を引き当てた。相手は北陽(大阪)。チーム打率3割3分6厘は出場30校中最高。ピッチャーも有田二三男(後に近鉄)という本格派がおり、大会随一の好カードと期待された。

 

 開会式直後ということで、出場校のほとんどの選手、監督はスタンドに残っていた。評判の江川は、いったいどんなボールを投げるのか。達川は、この目に焼き付けてやろうとブルペンをにらんでいた。初めて江川のボールを目の当たりにした瞬間の驚愕を彼は未だに忘れることができない。

 

「ブルペンに江川が立った瞬間、球場全体がシーンと水を打ったように静まりかえった。そして立ち投げの第1球よ。江川が投げた瞬間、甲子園中がどよめいた。“オー”じゃないよ。“ウォーッ”となった。言っておくけど、単なる肩慣らしのキャッチボールよ。全力で投げたらいったいどうなるんじゃろうと思ったよ」

 

 

ファウルに起きた拍手

 

 甲子園デビューは鮮烈だった。初回、いきなり3者連続三振。初めて江川のボールをバットに当てたのは5番の有田。23球目をバックネットにファウルした瞬間、スタンドからは拍手が起きた。前ではなく後ろに飛んだだけなのに。

 

 結局、このゲーム、江川は19奪三振で完封した。まるで子供のなかで、ひとり大人がプレーしているような印象を受けた。

 

 私はこの時、中学1年生だった。関東の怪物を見ようとテレビにかじりついていた。規格外の快速球を目にして声も出ないほどの衝撃を受けた。だが、それ以上に驚いたのが、インタビューでの江川の一言だった。

 

「今日は調子が良くなかった」

 

 19三振を奪いながら不調とは、いったいどういうことなのか。38年前の疑問を、本人にぶつけてみることからインタビューはスタートした。

 

「開会式の直後ということもあって、ちょっと体がだるかったんです。疲れもあったのかな。コンディションとしては決していい状態ではなかった。有田選手のファウルがバックネットに当たった瞬間、スタンドから“ウァー”とすごい歓声があがったのは今でも覚えています」

 

 2戦目の小倉南(福岡)戦でも10三振を奪い、大量リードに助けられて7回で降板した江川は、準々決勝で今治西(愛媛)と対戦する。前年秋の四国大会を制した優勝候補である。

 

 結論から先に言えば、江川は四国の強豪を歯牙にもかけなかった。取りも取ったり20奪三振。これは1試合でのセンバツ史上最多奪三振記録にあと1つと迫るものだった。結果は作新が3対0で完勝した。

 

 今治西の1番打者・曽我部世司は4打席4三振。1球もダイヤモンドの中に打球を弾き返すことができなかった。

 

「1・2・3のタイミングで合わせると振り遅れると思い、1・2のタイミングで振ったんですが、それでも当たらなかった」

 

 当時、愛媛には“西の江川”と呼ばれる剛腕がいた。南宇和の藤田学である。翌年、ドラフト1位で南海に入り、3年目で新人王に輝いた。

 

「その藤田と比べてもボールの伸びは全然、違っていた。手元での速さは比べものにならなかった」

 

 3番の田鍋良忠は、この試合、チーム唯一のヒットを放った。ストレートをセンター前に運んだ。このヒットがなければノーヒットノーランを達成されていた。

 

「手元でボールが浮き上がってきた。監督から“高めのボールには手を出すな”と言われたが無理だった。同じ高校生とは思えなかった」

 

 準決勝の広島商戦を前に公式戦での無失点イニングは78にまで伸びていた。そして大会通じての奪三振数は1930年に第一神港商(兵庫)の岸本正治がマークした最多記録54まで、あと5つと迫っていた。

 

 広島商の指揮を執る迫田穆成(現如水館監督)は、早い時期から打倒江川の秘策を練っていた。まともにぶつかったところで打てっこない。できるだけホームベースの近くに打者を立たせ、比較的威力が落ちると思われるアウトローのストレートを狙わせた。

 

 前日のミーティングで達川はおそるおそる迫田に聞いた。

「監督、もし江川のボールが頭に当たったら、どうなりますか?」

 迫田は顔色ひとつ変えずに言った。

「そりゃ、死ぬじゃろう」

 そして、迫田は続けた。

「死んだら、ワシが墓参りしちゃるよ」

 

 しかし、そうした作戦はまだ序の口。迫田には秘策中の秘策があった。“偽装スクイズ”だ。これは、いったいどういう作戦なのか。

 

 迫田が明かす。

「江川が本気になって投げてきたボールはバントもスクイズもできない。もしランナーが二、三塁になった場合、バッターはスクイズの構えから、わざと空振りするんです。三本間に挟まれた三塁走者は本塁ではなく、本塁の前方を目がけてスライディングする。当然キャッチャーはそれを追いかける。本塁がガラ空きになる。そのスキを突いて二塁走者が本塁を陥れるんです」

 

 話を聞いているうちに頭が混乱してきた。もし二塁走者が三塁走者を追い越して本塁に入ってしまえば、その時点で二塁走者がアウトを宣告されるのではないか。

 

「そのとおりです。だから先に追い越してはダメ。その前に、あくまでも三塁走者はおとりに徹してアウトになるんです。実は一度、この作戦を練習試合で実行したところ、追い越しではないのに二塁走者は“追い越しアウト”になってしまった。後で審判に“今後も、このプレーは使いますから、よう見といてください”と言ったら納得してくれました。逆に言えば、審判でも混乱するのだから甲子園でも十分、使える。江川に勝つにはこれしかないと考えていました」

 

(中編につづく)


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