芥川賞作家・中上健次が羽田空港で外国人向けの貨物を運ぶ肉体労働をしていたのは、1968年の夏ごろである。羽田へ向うモノレールから見る風景が好きだった、と「風景の貌」という短編で述べている。<丁度、大井競馬場のあたりから、整備場までの海側の景色である。いまから想えば、随分幼いロマンチシズムのように思うが、ヘドロと、埋めたてた土と、草と、荒涼とした感じが、私の何かをかきたてた。だからその景色らしい色どりの何ひとつない景色を見たいばっかりに、モノレールでは海側にいつも席を取った。>(河出文庫「枯木灘」に収録)

 

 その中上の命日である8月12日、大井競馬の騎手・的場文男が新記録となる地方競馬通算7152勝を達成した。的場が福岡から上京し、騎手見習いとして大井の調教師・小暮嘉久の門下生になったのは、中上が<整備場までの海側の景色>に癒されていた3年後のことである。

 

 高度経済成長期の後半、京浜工業地帯の一角を占める大井競馬場周辺はモノトーンの色に染められていた。当時の競馬場には、まだ鉄火場の匂いが残ってもいた。期待を裏切ると騎手目がけて馬券が投げつけられた。湯飲みが飛んできたこともある。「馬券には当たったけど、湯飲みには当たんなかったな」。この春、久々に会った際、的場は昔を懐かしむように、そう言った。

 

 時代の移ろいとともに競馬場の風景も様変わりした。バブル前夜の86年には日本初のナイター競馬「トゥインクルレース」がスタートし、幻想的なイルミネーションが観る者を非日常の世界へと誘ってくれた。鉄火場はおしゃれなナイトスポットに一変した。

 

 変わるものもあれば、変わらないものもある。それが勝ち続ける男・的場文男の勝負服だ。「赤・胴白星散らし」。13日付の本紙は新記録達成を機に永久勝負服に指定される見通しと報じていた。プロ野球で言えば「永久欠番」である。

 

 的場は自らのことを「馬から降りればただのオジさん」と自虐的に言う。ところが、ただのオジさん、赤地に白の星を散りばめた勝負服を身にまとえばマントを羽織ったスーパーマンに早変わりするのだ。

 

 夕闇迫る競馬場。インタビューを受ける的場の背に「来年こそダービーとれよ」との声が飛んだ。「0、10、5、22」。すなわち銀メダル10、銅5、着外22。61歳にはまだやり残した仕事がある。

 

<この原稿は18年8月15日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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