江川には甘美な記憶がある。

「1年の秋、前橋工(群馬)相手に10連続奪三振を記録した。その時、僕の投げたボールがヒューッと浮いていくのが(マウンドから)見えたんです。ボールが“浮く”というイメージを具体的に持った初めての時間でした」

 

<この原稿は2011年10月号『文藝春秋』に掲載されたものです>

 

 センバツで大会記録の60奪三振を達成した江川擁する作新は全国から引っ張りだことなった。引っ張りだこと言えば聞こえはいいが、招待試合の過密日程は怪腕を消耗させた。

 

 振り返って江川は言った。

「興行と言っちゃいけないけど、お客さんに投げる姿を見せなくてはいけない。1試合目は完投。2試合目も必ず3イニング以上は投げていました」

 

 最後の夏。初戦の相手は柳川商(福岡)。対戦が決まるなり、同校の福田精一監督は報道陣にこう啖呵を切った。

 

「江川、江川と騒ぎなさんな。キャッチャーが捕れるやないか。バットに当てられないわけがない」

 

 福田は驚くべき戦法を用いた。4番の徳永利美以外の全てのバッターにバスターを命じたのだ。これが功を奏し、柳川は6回に先取点をあげた。

 

 サイドスローの2年生投手・松尾勝則も好投した。1対1のまま延長戦に突入し、15回を戦った。結局、サヨナラ負けを喫したものの、柳川の健闘は大いに称えられた。

 

 松尾が秘話を披露する。

「試合の3、4日前、江川さんのスピードに慣れるため、先輩のつてを頼って松下電器の山口高志さん(後に阪急、現・阪神投手コーチ)に投げてもらった。山口さんのボールも速かったけど、江川さんのボールのほうがより速かった記憶がある。ボールが点ではなく線として見えましたから……」

 

 山口と言えば、日本球界を代表する快速球投手である。その山口よりも高校生のほうが速かったというのだ。

 

 このゲーム、江川は15回をひとりで投げ切り、23三振を奪った。これが甲子園での最後の勝利だった。

 

 38年前の夏を懐かしむように福田は語った。

「江川君に対しては“試合前にホラを吹いて申し訳なかった。最高のピッチャーだった”と言いたいね」

 

 このゲームを球場の通路から見つめていた選手がいた。銚子商(千葉)の2年生エース・土屋正勝である。次のゲームに出場する銚子商は作新対柳川商の試合が長引いたため、通路で待たされていたのだ。

 

 銚子商は江川の作新に対し、全く歯が立たなかった。彼のボールが最も速かったと言われる2年秋の関東大会では20三振を喫して1安打完封負けをくらっている。だが、柳川商戦の江川は、土屋の知る江川ではなかった。

 

「どっか痛めているのかな……」

 

 作新と銚子商は2回戦で対戦した。江川は本調子ではなかったが、それでもここぞという場面では恐ろしく速いボールを投げてきた。

 

 試合は両チーム無得点のまま延長戦へ。10回裏、銚子商はサヨナラのチャンスを掴んだ。2死一、二塁の場面で2番・長谷川泰之が一、二塁間を破った。二塁走者は悠々ホームインかと思われたが、キャッチャーの小倉が本塁の手前で突入した走者をブロック。作新はどうにか徳俵で踏みとどまった。

 

 試合途中から降り始めた雨は延長に入って勢いを増した。12回裏、銚子商の攻撃が始まる頃にはバケツをひっくり返したような状態になっていた。小倉はボールを返すのにも一苦労した。

 

「雨でポケットに入れたロージンも固まってしまっていた。仕方がないのでマウンドまで行き、江川のロージンを借りてボールにつけ、それを渡した。ボールの皮は濡れるとものすごく滑りやすい。僕は江川がピッチングができていること自体、不思議でした」

 

 2つの四球とヒットで、江川は1死満塁のピンチを招く。打席には2番の長谷川。この日は2本のヒットを許していた。

 

 江川は、どんな思いでマウンドに立っていたのか。

「疲れていたんでしょうね。ずっと2死満塁だと思っていました」

 

 打席の長谷川はタオルで何度もバットを拭いた。バットを短く持って素振りをすると、グリップエンドまでするりと抜けた。

 

 3ボール2ストライク。クライマックスが訪れる。

 

 長谷川が明かす。

「実はベンチからはスクイズのサインが出ていたんです」

 

 銚子商ベンチはグラウンドのぬかるみを計算に入れ、サヨナラスクイズを狙ったのだ。

 

 絶体絶命の場面。ここで江川はタイムをかけ、キャッチャーと内野手を全員マウンドに呼び寄せた。

 

「最後に思い切って投げたいんだけど、どうだ?」

 口を切ったのは江川だった。

 

「オマエのおかげで春も夏も(甲子園に)来られたんだから、最後は好きなようにしろ」

 そう答えたのはファーストの鈴木だった。江川にとって、それは予想だにしない言葉だった。

 

「だって一番、そんなこと言わないタイプの人間でしたから。この時、初めてチームがまとまった気がしました」

 

 この時の作新は一枚岩と呼ぶには程遠い状態だった。誰がホームランを打とうが、決勝タイムリーを打とうが、主役は常に江川。いつしか江川は浮いた存在となっていた。鈴木の言葉を聞いて、心のしこりが取れた江川に、もう思い残すことはなかった。力を限りに右腕を振り抜いた。

 

「あの場面、ストライクゾーンに入れる気は全くなかった。それよりも一番速いボールを投げようと。ただ、それだけでした」

 

 ボールは高めに抜け、三塁走者は小躍りして本塁を踏んだ。殊勲のサヨナラ四球を選んだ長谷川はバットを持ったままバンザイし、なかなか一塁へ歩こうとしなかった。

 

「今でも、あのボールは気に入っているんです」

 

 またしても江川は意外なセリフを口にした。

「指にかかったいいボールでした。100マイル(160キロ)は出ていたんじゃないかな。そういう感触があります。ただストライクではなかった。そういうことでしょう」

 

 天竜川での小石の遠投の結実が、そこにあったということなのか。この時も江川は小石が対岸の崖に当たる音を聞いたのかもしれない。

 

(おわり)


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