10月4日、Bリーグの3シーズン目がスタートした。2年前、水と油の関係だった企業チーム中心のNBLと地域密着を理念としたbjリーグが統合し、Bリーグは産声をあげた。注目は昨季から活躍の場をシーホース三河へ移した松井啓十郎だ。松井の武器は3ポイントシュートである。昨季の3P決定率は40.3%。バスケットの本場NBAでは40%を超えれば名手と見なされる。2年前に松井を取材する機会があった。当時の原稿でリーグを代表する3Pシューターの原点に触れてみよう。

 

<この原稿は『ビッグコミックオリジナル』(小学館)2016年10月5日号に掲載されたものです>

 

 オリンピックが終われば次はバスケットボールだ。9月22日、男子プロバスケットの新リーグ「Bリーグ」が開幕する。

 

 開幕カードはアルバルク東京対琉球ゴールデンキングス。

 

 トヨタ自動車が母体のアルバルクは2015-16シーズンで最高勝率を記録したNBLの雄。片やキングスは4度の優勝を誇るbjリーグ最強チームだ。

 

 企業チーム中心のNBLと地域密着を理念とするbjは05年以降、水と油の関係だった。

 

 国際バスケットボール連盟(FIBA)が日本バスケットボール協会(JBA)に対し、資格停止処分を科したのは14年11月。制裁解除の条件の中にはNBLとbjの統合も含まれていた。

 

 それを断行したのがJBAを改革するために設けられたタスクフォースのチェアマンに就任していた川淵三郎であることは広く知られている。

 

 川淵と言えば、サッカーJリーグの初代チェアマン。93年5月の開幕戦はヴェルディ川崎対横浜マリノスの一試合だけだった。

 

 開幕戦を、当時としては最高のカードにしぼったことで世間の注目度は高まり、国立競技場は満員となった。試合内容も素晴らしく、Jリーグはスタートダッシュに成功した。

 

 その頃、松井啓十郎は、まだ小学生だった。Jリーガーに憧れる少年が多いなか、松井は父親の指導を受けるバスケ少年だった。

「1992年のバルセロナ五輪でアメリカの男子バスケが優勝した。いわゆるドリームチームの中心だったのがマイケル・ジョーダン。父は彼のプレーを見て感動してしまったんです。その翌日、“オマエ、明日からバスケやれ!”って。そこからマンツーマンでの指導が始まったんです」

 

 本物のジョーダンに会ったのは、その4年後である。日本にバスケを広める企画としてスポーツ用品メーカーのナイキがジョーダンやチャールズ・バークレーなどNBAのスター選手を来日させた。

 

 横浜アリーナでのイベントで松井はジョーダンと“1on1”を体験する機会に恵まれた。

 

 どういう経緯だったのか。

「当時、NBAのスパーズにショーン・エリオットという選手がいて、彼のキャンプに参加したことがあった。それで企画が持ち上がった時、ショーンが“ひとり上手な子を知っている。KJ(松井の愛称)って子だ”と僕を紹介してくれた。イベントは平日だったので、学校を休んで参加しました」

 

 中学1年でインターナショナルスクールに入った。英語をマスターするためである。

 

 14歳で渡米し、メリーランド州のモントロス・クリスチャンスクールに入学。バスケットの強豪で1学年下には16-17シーズンからはウォリアーズでプレーするケビン・デュラントがいた。

 

 レギュラーになるのには時間がかかった。最初のうちは2軍でのプレーを余儀なくされた。

 

「向こうは2メートル以上身長のある選手がゴロゴロいる。僕は体の線も細かったので“通用するのかな”という不安は絶えずありました」

 

 自らに足りないものを、どう補うか。試行錯誤の末にたどりついたのが、自らのアドバンテージ、すなわち“バスケIQ”を磨くことだった。

 

「僕は体も大きくないし、さして運動能力が高いわけでもない。同年代の選手に勝つには、バスケIQを高めるしかなかった。

 

 たとえばクイック・リリース。速くシュートを打てば、相手からブロックされる確率も低くなる。そのためには相手より2手先、3手先を読まなければならない。相手が“このタイミングでは打たないだろう”という場面でも、わずかなタイミングのズレを利用してシュートを決める。マッチアップしている相手に“つきにくいな”という印象を与えることに腐心しました」

 

 大学はアイビーリーグの名門コロンビア大学へ。当時のヘッドコーチ、ジョー・ジョーンズから熱心に誘われた。

 

「“オマエが欲しいから”と言って実家にまできてくれたんです。“1年目からのプレーは約束できないがチャンスはあるぞ”と。他の強豪大学からも誘いはあったのですが、プレーできなければ入っても意味はありませんから……」

 

 松井によると他の強豪大学は、おしなべて奨学金制度がある。ところがコロンビア大にそれはなく、ファイナンシャルエイドというサポートシステムがあるだけだった。

 

 普通の選手なら、そちらを選ぶ。だが松井は別の価値を重視した。

「コロンビア大のOBにはウォール街で働く人が多い。僕も一時期は銀行員になるかプロのバスケットボールプレーヤーになるかで迷ったんです。実際、大学3年の夏にはインターンで三井住友銀行のニューヨーク支店で銀行員を経験しました」

 

 迷った挙句、松井が選択したのはバスケットだった。

「銀行員はやろうと思えば60歳までやれる。しかしバスケットをやれる年齢というのは限られている。勝負するなら、今しかないだろうと……」

 

 多くのチームからオファーを受けるなか、松井が選んだチームはJBLのレラカムイ北海道だった。暖房のない体育館でジェットヒーターを2つつけて練習した。生まれて初めての雪かきも経験した。

 

 日立を経て、11-12シーズンからはトヨタ自動車アルバルクへ。日本代表にも選ばれロンドン五輪予選、リオデジャネイロ五輪予選などを戦った。

 

 ガードをポジションとする松井の最大の武器は3ポイントシュートだ。昨シーズンの成功率は44.9%。NBAでは40%を超えれば名手と見なされる。

 

「僕の中で(Bリーグ)初代チャンピオンになるのは当たり前。個人的には3ポイント王を獲ること。“日本で一番いいシューターはKJだ”と認められたいんです」

 

 新リーグはスターを待っている。


◎バックナンバーはこちらから