J3の相模原に所属する川口能活がグローブを壁にかける決断を下したという。ついにこのときが来たか、との感慨を抱きつつ、彼がなし遂げたことの大きさを改めて思う。

 

 彼は、日本人のGKというポジションに対する見方を一変させた。野球で言うところの“ライパチ”以下の扱いしかうけてこなかったGKというポジションは、川口能活というスターの出現によって、子供たちが憧れるポジションとなった。

 

 もっとも若い頃の彼は、自分をアイドル扱いする類の質問には苛立ちを隠せないところがあった。彼が望んでいたのは、上達のために流した汗や、試合でのプレーぶりに対する評価だったからである。

 

 いつだったか、憤懣やる方なし、といった表情で川口が言っていたことがある。

 

 「たとえば僕が会心の反応でシュートをセーブしたとするじゃないですか。でも、こぼれたところをFWに押し込まれると、記事は“川口が弾いたところを”になる」

 

 大きなミスをしたとき以外は主語として名前がとりあげられることのなかったGKというポジションに対する扱いを、川口は変えた。ひょっとしたら日本サッカー史上初めて、変えた。それはそれで素晴らしく大きな意味を持っていたものの、GKというポジションを極めるためには鬼になることも辞さなかった男からすると、不満を覚えることも少なくなかっただろう。

 

 川口と言えば大一番での神がかり的なセーブを思い浮かべる人が多いかもしれないが、個人的に印象に残っているのは、シュートをキャッチすることに対するこだわりである。

 

 一般的なGKであればキャッチを断念する強いシュートに対しても、彼は積極的にキャッチを試みた。そのレベルは、世界でも出色の次元にあったように思う。キャッチを断念せざるをえないブレ球を誘発する試合球が開発されなければ、その技術はもっと高く評価されていたはずである。

 

 さて、アトランタ五輪でのブラジル戦やアジアカップでの獅子奮迅ぶり、さらにはW杯ドイツ大会でのPKストップなど、数々の鮮烈な印象を残している川口だが、わたしが一番忘れられないのは、アトランタ五輪を目指すアジア最終予選での奮闘である。

 

 当時、93年に発足したJリーグの人気には、明らかな翳りが出てきていた。西日本での客足の落ち込みは特に顕著で、発足当時に言われた「日本人にサッカーは合わない」なる論がまた息を吹き返しつつあった。

 

 そんな流れにストップをかけ、世間の目を再びサッカーへと引き戻したのがアトランタを目指す選手たちだった。ドーハで壮絶に散ったのは日本サッカーリーグ時代からのスターだったが、28年ぶりに五輪への切符を勝ち取ったのは、間違いなくJリーグのスター候補生たちだったからである。

 

 川口能活は、その象徴の一人だった。

 

 本人に自覚はなくとも、彼はJリーグを救った。わたしにとってはもちろんのこと、日本のサッカー界にとっても恩人と言うべき男の引退を、いまはただ静かに労いたい。

 

<この原稿は18年11月8日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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