平成最後の年の瀬も、いよいよ押し迫ってきた。スポーツにおける平成とは、果たしてどんな時代だったのだろう。それを一言で言い表すのは難しいが、私にはグローカル(glocal)という言葉がストンと胸に落ちる。言うまでもなくグローバル(global)とローカル(local)の造語である。それを主導したのが国内初のプロサッカーリーグ、すなわちJリーグだったと私は考えている。

 

 Jリーグが創設されたのは1991年(平成3年)11月。92年(平成4年)9月にはJリーグカップがスタートし、93年(平成5年)5月には、初のリーグ戦が華々しく開幕した。

 

 印象的だったのは初代チェアマン川淵三郎の開会宣言だ。「スポーツを愛する多くのファンの皆様に支えられまして、Jリーグは今日ここに大きな夢の実現に向かってその第一歩を踏み出します」。スピーチの肝は「サッカーを愛する」ではなく、「スポーツを愛する」としたことだった。そこには「この国のスポーツの姿そのものを変えていきたい」との川淵の強いメッセージが込められていた。

 

 Jリーグが誕生するまで、日本のスポーツの主役は「学校」と「企業」であり、「地域」や「住民」は黒衣に過ぎなかった。川淵が掲げる「地域密着」の理念は、その後、プロ野球をはじめ、多くの競技に影響を与え、2011年(平成23年)に成立したスポーツ基本法においても、「地域の一体感や活力を醸成するもの」「地域社会の再生に寄与するもの」といった文言が盛り込まれた。

 

 またJリーグは日本サッカーが世界へと飛翔する基盤ともなった。93年(平成5年)の“ドーハの悲劇”はW杯の前に仁王立ちする壁の高さを私たちに知らしめた。あの絶望があったからこそ97年(平成9年)の“ジョホールバルの歓喜”を国民は国家的慶事として祝うことができたのである。

 

「外交は内政の延長にある」とはよく聞く言葉だが、「地域密着」を理念に掲げたJリーグの存在なくして、日本代表の6大会連続W杯出場はありえなかった。

 

 振り返れば、サッカー日本代表が躍進する以前、バレーボールのナショナルチームは「全日本」、ラグビーは「ジャパン」と名乗っていた。今もその名残はあるものの、以降、多くの競技において「代表」が一般的になった。これも平成に入ってからの現象である。

 

<この原稿は18年12月26日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


◎バックナンバーはこちらから