プロ野球ができて80年以上たつが私が知る限りにおいて政治記者出身の監督は大阪タイガースや広島カープなどの指揮を執った石本秀一だけである。広島在住のライター西本恵がこの11月に上梓した「日本野球をつくった男――石本秀一伝」(講談社)を読んで、そのことを知った。

 

 満州の大連商業監督として、同校を全国中等学校優勝野球大会ベスト4に導いた石本が広島に帰郷したのは1923年9月のことである。大阪毎日新聞に職を得た石本は、広島支局で記者活動を始めるのだ。西本は<石本が担当したのは、税務署や商工会議所、師団司令部などであった。野球やサッカーをはじめ、柔道や剣道などの試合も取材していった>と書いている。<みるみるうちに敏腕記者として成長した>とも。贈収賄事件にも切り込んだとある。

 

 石本のバイタリティーが尋常でないのは母校・広島商業の監督にも就任し、甲子園優勝を果たしていることだ。著作には<取材をして原稿を書いて、練習時間の午後三時頃になれば、広島商業のグラウンドにかけつけた>とある。驚くのは、“二足のわらじ”をはきながら、どちらの分野でも成功を収めていることだ。いや、それだけではない。石本には「経営者」としての顔もあった。言うなれば「三刀流」である。

 

 球団創設2年目の1951年、広島は深刻な経営難に見舞われる。連盟への加盟金が支払えないばかりか選手への給料も遅配の連続だった。惨状を見かねたセ・リーグ会長の鈴木龍二が大洋への吸収合併を提案したのは同年3月のことである。

 

 これに待ったをかけたのが監督の石本だった。「会社側がこれ以上チームを経営できぬというなら、解散だけは中止して、一切を自分に任せてもらいたい」と球団に直談判して全権を掌握し、県内に後援会の組織網を張り巡らせたのだ。これにより、同年12月の時点で440万円もの支援金を集めることに成功する。世に言う「樽募金」である。

 

 こうした柔軟な発想と県内隅々にまで根を張った人脈は、どうやって培われたのか。西本は「政治記者をさせてもらったことが、本人にとって、最大の収穫であったと思う」との石本の長男・剛也のコメントを引き出している。異色にして異質の監督の原点と言っても過言ではあるまい。プロ野球の“ご先祖様”は多士済々である。

 

<この原稿は18年12月19付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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