先日行われたサッカーアジアカップで日本代表は準優勝に終わった。日本を率いる森保一にとってA代表監督として初の黒星。采配に対する厳しい声もあるが森保ジャパン発足後10番を背負ってきたMF中島翔哉が不在の中、ターンオーバーを使い、うまくやり繰りして決勝まで勝ち上がったようにも映る。今後、森保がこの経験をどう生かすのか。森保は1992年、アジアカップを選手として戦、日本の優勝に貢献。“影のMVP”と言われるほどの活躍を見せた。26年前に記した原稿で森保の生い立ちを追う。

 

<この原稿は『月刊現代』(講談社)1993年3月号に掲載されたものです>

 

「オレたちでつくった威厳のない賞だけど受け取ってくれるかい?」

 

 1992年11月8日、広島市広域運動公園陸上競技場。サウジアラビアとのアジアカップ決勝戦が始まる直前、森保一は数人のカメラマンにフィールドの隅に手招きされた。

 

 準決勝の中国戦で大会2度目の警告を受けたため、この日、森保は試合に出場することができない。何の用だろうと訝りながらカメラマンに近づくと、唐突にパネル写真とオルゴールが手渡された。驚きを隠せない森保の肩をひとりのカメラマンが叩いた。

 

「これはオレたちがおカネを出し合ってつくったプレゼントなんだ。今大会、キミは何1つ賞をもらうことができなかったけど、キミが実質上のMVPであることは、オレたちが1番よく知っている。だからほんの心尽くしだと思って受け取って欲しい」

 

 アジアカップでは1試合ごとにMVPが選ばれ1000ドルから2500ドルまでの賞金と楯がスポンサー企業からおくられた(後ほど全額広島原爆病院に寄付された)。エースの三浦知良が2度、中盤の北沢豪と福田正博、キャプテンの柱谷哲二がそれぞれ1度ずつMVPに輝いた。森保はその献身的なプレーを高く評価されはしたものの、1度も賞の対象にはならなかった。

 

 カメラマンたちは、常にボールを持った選手をファインダーで追う。シャッターを切ろうとしたまさにその瞬間、決まって被写体の背後にスッと「背番号17」が現れ、すぐに消えていく。それは日本代表監督、ハンス・オフトの口ぐせである「ビハインド・ザ・ボール」を忠実に履行した結果であった。また一転、ピンチの場面、相手がフリーになろうとした瞬間、矢のようにファインダーに飛び込んでくるのも「背番号17」だった。ディフェンシヴ・ハーフという地味なポジションゆえ、彼の活躍はカズ、北沢、福田らの華のあるプレーにかき消されてしまったが、ファインダー越しのプロの目は厳しくも正直だったというわけだ。これは安っぽい美談ではない。

 

 昨年5月、森保が日本代表のメンバーに選ばれた時、サッカー関係者の間からは一斉に驚きの声が漏れた。中には「森保? あのサンフレッチェ広島の若い選手って、そんなにいいの?」と、あからさまに疑問を口にする者もいた。

 

 無理もない。日本リーグ(マツダ)の1部で彼がプレーしたのは91-92シーズンのわずか1シーズン。それも18試合に出場して4得点をあげたのみ。それまでの2シーズンは、2部リーグでプレーする地味なミッドフィルダーに過ぎなかった。

 

 振り返って森保が言う。

「代表入りの話をチームのコーチから聞いた時には、冗談かと思いました。思わず“冗談はともかく、本当の要件は何ですか?”と聞き返してしまったくらいですから」

 

 彼の無名性を示すエピソードは枚挙にいとまがない。まず、日本代表に選ばれた最初の合宿で、彼はある代表選手から「ところで、キミどこのポジションやってるの?」と真顔で訊ねられてしまう。つまり、森保のプレーを1度も見たことがないというわけである。

 

 プロ野球にたとえれば、初めて選ばれたオールスターで先輩から「キミ、ピッチャーだっけ、バッターだっけ?」と訊ねられるようなものである。笑い話にもならない。

 

 ある会場の電光掲示板には「森保」ではなく「森」と紹介された。係員はてっきり「森保・一」ではなく「森・保一」とカン違いしてしまったのだろう。

 

 まだある。先のアジアカップはサンフレッチェの地元・広島で開催されたのだが、何とスタンドから「モリホ!」という声が上がってしまったのである。さすがに、その観客は後で間違いを指摘されて小さくなっていたそうだが、地元のファンでも間違えるのだから、全国規模では推して知るべしであろう。

 

 森保の日本代表デビューは、昨年5月に行なわれたキリンカップでのアルゼンチン戦。カニージャ、バチストゥータといった世界に名の知られたストライカーを擁するアルゼンチンを、94年のワールドカップの大本命と見る向きは少なくない。そんな強豪を相手に、日本代表は敗れはしたものの大健闘を見せ、森保も新人らしからぬ落ち着いたプレーで大いに株を上げた。

 

「日本の選手の中で、誰が1番目立ったか?」

 

 日本人記者団のお決まりの質問に、アルゼンチン代表のバシーレ監督は、意外にも真っ先に森保の名を口にした。耳を疑う日本人記者団。とどめはカニージャの次の一言だった。

 

「いやになるほど17番がいつもいるんだ。スペースが開いたから入り込もうとすると、いつの間にかカバーに入っている。僕にとって1番嫌だったのが、あの17番だよ」

 

 日本のサッカー界が“掘り出し物”くらいにしか思っていなかった才能を、世界のトップが先に認めてしまったのである。現金なものでこれを機に、日本サッカー界の森保への評価も一変する。ある関係者は「オフトマジックというものがあるとすれば、その第1は無名の森保をスカウトしたことではないか」と得意気に言い切った。少なくともオフトが日本代表の監督に就任していなければ、森保が日の丸のユニフォームに袖を通すことはありえなかった。日本人監督が代表メンバーとして指名するには、彼はあまりにも無名すぎたからだ。

 

(中編につづく)


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