ハンス・オフトと森保一。日本代表はいまワールドカップ初出場をかけた1次予選を間近に控えている。そのキーパーソンとも言えるこの2人の出会いは、今から7年前に遡る。出会いは、ほんの偶然だった。

 

<この原稿は『月刊現代』(講談社)1993年3月号に掲載されたものを一部再構成しました>

 

 ハンス・オフトと森保一。日本代表はいまワールドカップ初出場をかけた1次予選を間近に控えている。そのキーパーソンとも言えるこの2人の出会いは、今から7年前に遡る。出会いは、ほんの偶然だった。

 

「確かオフトさんが指導者講習会で諫早に来た時だったと思います。私が懇意にしてもらっている関係でマツダの今西監督がオフトさんを連れてウチの学校にやってきた。当時、オフトさんはマツダのコーチをしていましたからね。で、練習を見ていて、こう言ったんです。“あの子はボールを持った時の姿勢がいい。顔が上がっていて、きちんとまわりの状況を見ている。何という子なんですか?”それが森保だったわけですが、本人はそのことを知らないと思います」(下田規貴元長崎日大高サッカー部監督)

 

 ドイツでは、自分のプレーに熱中するあまり、まわりの見えない選手のことを「BLIND」という。そう呼ばれることはサッカー選手として失格の烙印を押されることにも等しい。後ほど詳しく述べるが、森保というプレーヤーはその対極に位置する。ディフェンシヴ・ハーフとしての森保の才能を、オフトは短時間の練習を見ただけで早々と見抜いてしまったのである。

 

 ところで長崎の高校サッカーといえば「昔、島原商、今、国見」だが、この両校の育ての親とも言えるのが国見の名物監督・小嶺忠敏氏である。長崎市の深堀中学でサッカーボールを追っかけていた森保少年は、当然のことながら小嶺監督に憧れ、国見への進学を望んでいた。森保が中学3年生の時、小嶺氏はまだ島原商に籍を置いていたが、新学期とともに国見に転任することは言わば“公然の秘密”だった。

 

「口にこそ出しませんでしたが、息子は国見に行きたくて仕方なかったんじゃないでしょうか……」

 

 そう前置きして、森保の父・洋記さんが続ける。

「息子は長崎市ではまあまあの選手だったんですが、サッカーの盛んな島原市内にはあのくらいの実力の子はたくさんいました。しばらくして小嶺さんにお会いした時、“先生が直接声をかけてくれていれば、ウチの子も国見に行っていたと思います”と言ったんですけど、その頃には、きっと、どうしても欲しい選手じゃなかったんでしょう。小嶺さんは(森保の実家のある)深堀を素通りされて、香焼町まで選手を取りに行かれよりましたよ」

 

 本人の気持ちはどうだったのか。

「誘いもなかったし、行ってもレギュラーになれないんじゃないかという不安もありました。何しろそう大した選手じゃなかったですから……」

 

 高校時代、森保が経験した全国大会は3年時の国体の1度だけ。長崎県の選抜メンバーに選ばれはしたものの、16名中14名が国見の選手で、森保はベンチウォーマー。結局、1度も出場のチャンスには恵まれなかった。

 

 テスト入団でマツダへ

 

 森保は早くから高校卒業後は日本リーグに進むことを考えていた。だが、日本リーグに参加する企業はおろか、大学からも誘いはこなかった。思い余った森保は、監督の下田の伝手を頼りにマツダの入団テストを受ける。テストには5、6人の高校生が参加していたが、他の者は既に入団が内定しており、実際に技能を試されたのは森保ひとりだった。

 

 どうにか、テストには合格した。だが、体のできていない森保は入団早々、地域リーグに所属する社内チームに回されてしまう。広島カープに入団したと思っていたら、親会社のマツダの野球部に回されてしまったようなものだ。練習態度は真面目で意欲にも見るべきところはあったが、体力があまりにも不足していた。

 

 テスト入団の森保にとって幸運だったのは、オフトと2度目の出会いを果たしたことである。マツダのコーチを務めていたオフトは、しばしば地域リーグの試合にも足を運んだ。そこで、再び森保のプレーを目にすることになる。

 

「確か広島大附属高のグラウンドだったと思いますが、森保のプレーを見て“彼はプレースタイルがいい。しつこいし、きっちり自分の仕事をしている”と誉めていたことを覚えています。森保というのは、たとえパスを出した味方の選手がミスをしても“自分がもっといいパスを出せばよかった”と考えるような男。入った当初は今ほどスピードも力強さもありませんでしたが、落ち着いてまわりを見ることのできる冷静さだけは光っていました」(河内勝幸サンフレッチェ広島ヘッドコーチ)

 

 雑草型の森保にとって、オフトの教えは何もかもが新鮮だった。森保はあたかも乾いた砂が雨水を吸い込むように、オフトの教えを吸収していく。オフトとの再会は、本当のサッカーとの出会いでもあった。

 

 森保は言う。

「高校まではボールを長く持つこと、技術を見せびらかすことがいいプレーだとカン違いしていた。オフトに会って僕のそういうサッカー観は根底から崩れました。オフトが口を酸っぱくして言ったのは、チーム・ディシプリン、トライアングル、そしてアイ・コンタクト。今の日本代表チームでの指導と全く同じことです。要するにサッカーの基本なんですが、それを徹底して仕込まれた。スローイン1つとっても、味方のどっちの足に投げるのか。いかにすれば味方がプレーしやすいように、正確に早くパスをつなぐことができるか。練習は来る日も来る日も基本の繰り返しでした」

 

 森保がマツダで2年目を迎えた時、オフトはチームを去る。森保はオフトの教えを忠実に守ってチームの中心選手に成長した。そして、昨年、3度目の出会い――。キリンカップでの日本代表入りは、オフトによると1次テストだったとはいえ、森保は見事にそのチャンスをものにした。

 

(後編につづく)


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