平成も、残り3カ月を切った。30年余の名勝負を振り返る特集がスポーツメディアにおいては花盛りだ。相撲では2001年(平成13年)5月場所、千秋楽での一番をあげる者が少なくない。横綱貴乃花と同武蔵丸はともに13勝2敗で並び、優勝の行方は決定戦へと持ち越された。

 

 貴乃花は前日の大関武双山戦で右ヒザを亜脱臼していたにもかかわらず、武蔵丸を上手投げで破り、万雷の拍手を浴びた。当時の首相小泉純一郎が表彰式で「痛みに耐えてよく頑張った! 感動した!」と叫んだシーンは今も語り草だ。決定戦の瞬間最高視聴率は32・3%にも達した。

 

 館内の盛り上がりをよそに、貴乃花は「明鏡止水の心境」だったという。「勝っても負けてもいい。ただ引いたら勝っても引退できない。引いたら、自分の(相撲人生の)最後のページが空白になってしまう」。いったい彼は何と戦っていたのか。「自分ですね」。横綱とは何かを問い続けた8年間だった。

 

 平成最後の年の瀬、神楽坂の店でグラスを傾けた。いきおい話は武蔵丸戦にも及んだ。「僕が土俵に上がったのはあの試合が頭にあったからなんです」。元貴乃花親方が口にしたのは1984年ロサンゼルス五輪柔道無差別級決勝戦だ。2回戦でふくらはぎの肉離れを起こした山下泰裕の右足は限界に達していた。相手はエジプトのモハメド・ラシュワン。山下にとって相手がどうのこうのは問題ではない。自分との戦いだった。払い腰をかわして横四方へ。「金メダルへの抑え込み」はロス五輪の白眉だ。

 

 この時、花田光司少年は12歳だった。自宅のテレビにかじりついていた。「これが武道だ。これが日本人の精神だ。そして、これが日本人の伝統的な戦い方なんだ。それを山下さんは少年の私に教えてくれた。(武蔵丸との)戦いに打って出る時も、この試合のことが頭の中にありました」

 

 全柔連会長の山下は06年からNPO法人・柔道教育ソリダリティー理事長も務める。青少年育成に加え、発展途上国に柔道着や畳を送る国際貢献事業なども行っている。

 

 元親方も「土俵を通じた社会貢献」をコンセプトに社団法人を設立することを明言している。「相撲に恩返しがしたい」。活動を開始するのは元号が改まってからだろう。在野の多士済々が「梁山泊」に集い始めている。

 

<この原稿は19年2月6日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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