第886回 プロ野球2リーグ制の陰にGHQ
セントラル・リーグとパシフィック・リーグ。プロ野球が1リーグ制から2リーグ制に移行したのが1950年。2リーグ分立70シーズン目の今季は、プロ野球におけるひとつの節目と考えていいだろう。
2リーグ制に舵を切った表向きの理由は“シールズ・ショック”だった。前年秋に来日したサンフランシスコ・シールズは巨人を中心とする選抜チームを歯牙にもかけなかった。シールズはパシフィック・コーストリーグに所属する3Aクラスのチーム。そんなチームに一矢も報いることのできなかった無力感は、以下の文面にはっきりと窺える。<川上、別当、大下、藤村、青田、小鶴、西沢などを擁した全日本すら一度も勝てなかった(中略)。日本のプロ野球を、本場のアメリカ並みに強くするにはどうすればよいか――それにはアメリカに習(ママ)って二リーグに分かれ、互いにハ(ママ)を競い合わねば強くならないという答えの比重が強まったことは争われない事実である>(中国新聞1959年11月29日付)
しかし、とも思う。シールズが黒船の役割を果たしたのは事実としても、果たしてそれが理由で、いきなり2リーグ制に舵を切るだろうか。もっと別の大きな理由が存在したのではないか。
敗戦国日本は、当時GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に置かれていた。米大統領から日本統治の全権を与えられていたダグラス・マッカーサーの部下にウィリアム・フレデリック・マーカットという人物がおり、大変な野球通として知られていた。自身も米国ではノンプロ選手として活躍していた時期がある。そのマーカットの持論は<アメリカは、二大政党、二大リーグ、バランスのとれた自由競争で、今日の繁栄を築いた>(鈴木明著『プロ野球を変えた男たち』)というものだった。
マーカットの直属の部下にキャピー原田という日系の米国軍人がいた。シールズ招聘を正力松太郎に提案した人物でもある。<日本の野球を、アメリカの大リーグと互角に戦えるレベルに強化したいと思っている。そのためにアメリカ人である貴方の力を是非ともお借りしたい>(市岡弘成・福永あみ著『プロ野球を救った男キャピー原田』)と正力。数々の史料や文献はGHQこそが2リーグ制の影の立役者だったことを仄めかせている。
<この原稿は19年2月13日付『スポーツニッポン』に掲載されています>