1月場所中に引退した横綱・稀勢の里は「記録」にも「記憶」にも残る横綱だった。ただし、「記録」はどれもがワーストである(1958年の年6場所制以降)。

 

 

 8場所連続休場。

 出場最少66回。

 皆勤2場所。

 勝率5割。

 

 少年の頃、栃ノ海という横綱がいた。小柄で細身、堂々たる体躯の大鵬や柏戸と比べると、明らかに見劣りがした。

 

 調べてみると、横綱在位は17場所で、優勝は1964年年5月場所の一度きり。勝率は5割9分6厘だ。

 

 その栃ノ海より下回ったのだから、稀勢の里の「弱さ」は折り紙つきだ。

 

 その一方で、これほど「記憶」に残る横綱も珍しい。あまりにも劇的な相撲が多かったからだ。

 

 横綱として初めて迎えた2017年年の3月場所、稀勢の里は13日目に横綱・日馬富士の一気の寄り倒しで敗れた。土俵下に転落した新横綱は左胸を押さえたまま、苦悶の表情を浮かべ、しばらく動けなかった。

 

「左大胸筋損傷」「左上腕二頭筋損傷」――。

 

 続く14日目には横綱・鶴竜になす術なく寄り切られ2敗目。これにより賜杯争いは稀勢の里が1敗の大関・照ノ富士を追うかたちとなった。

 

 そして迎えた千秋楽、稀勢の里は突き落としで照ノ富士を破って優勝決定戦に持ち込むと、土俵際、右からの小手投げで逆転優勝を果たしたのである。

 

 新横綱の優勝は、1995年1月場所の貴乃花以来22年ぶりの快挙だった。

 

 しかし、無理を押しての強行出場は、その後の相撲人生に、大きなツケを残した。一瞬の輝きと引き換えに、失ったものの大きさを思うと暗澹たる気分になる。

 

 最後の場所となった1月場所は初日から小結・御嶽海、平幕・逸ノ城、栃煌山を相手に3連敗を喫した。

 

 持ち前の下半身は粘りを失い、左からの攻めはことごとく不発に終わった。もう、とても正視できるような内容ではなかった。

 

 元貴乃花親方は、引退を決めた稀勢の里に対し、スポニチ紙上(1月17日付)で<心身ともに精根尽き果てた状態で土俵に上がったことを、その他のこれからがある下位の力士たちに、見習ってほしい>と賛辞を送った。

 

 真意を聞くと、元親方は「稀勢の里は19年ぶりの日本出身横綱ということで、ひとりで全てを背負ってしまった。体のケガは治っても、心の傷は癒えない」と語った。

 

 綱の重みは、綱を締めた者にしかわからないのだろう。

 

<この原稿は『漫画ゴラク』2019年2月15日号に掲載されたものです>

 


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