尖閣諸島、竹島、北方領土……。国境問題や安全保障の専門家として、メディアに引っ張りだこの山田吉彦東海大学教授の研究領域はもっぱら「海」だが、学生時代は「陸」に青春を賭けていた。

 

 千葉・佐倉高陸上競技部時代の指導者は後に92年バルセロナ五輪銀、96年アトランタ五輪銅の有森裕子、97年世界選手権アテネ大会優勝の鈴木博美、00年シドニー五輪金の高橋尚子を育てる女子マラソンの名伯楽・小出義雄である。

 

「小出先生は、とにかく褒め方がうまかった」と山田。どう褒めるのか。「一緒に走りながら耳元で、こうささやくんです。“いいね、いいね。オマエの蹴りはいいね”。故障すると、先回りして僕の家で待っていてくれる。“オー、待ってたよ。大丈夫かァ”」。だが、この話にはオチがある。「僕が帰ると、先生はもうオヤジと酒を飲んでいました(笑)」

 

 平成の女子マラソンを牽引し、世界に飛躍させたのは異色の指導者・小出である。取材に行くと、夜中まで酒に付き合わされた。新幹線でばったり会った際には、隣の席を指さし、空いているから座れ、という。まとめ買いしたビールは、瞬く間にカラになっていく。新横浜あたりで売り子の女性にピシャリと言われた。「もう在庫はありません」

 

 酔いに任せて聞いた。「監督は“褒めて伸ばす”という指導法ですが、才能のない選手もいるでしょう」。小出節がさえる。「そういう場合は体のどこかを褒めるんだよ。たとえば手がきれいなら、“オマエの手はきれいだな”と。すると毎日、真っ白になるまで磨いてくるぞ。それで集中力が養われるんだよ」。「じゃあ、手がきれいじゃない場合は?」。「そういう場合は親を褒めるんだな。“キミが真面目なのは親の育て方がよかったんだろう”って。親を褒められて気を悪くする人間はいないだろう?」。丸め込まれてたまるか。「監督、それはちょっと無責任じゃないですか」。向き直った小出、薄い笑みを浮かべて言った。「褒める時は無責任でいいんだ。ただ叱る時には責任がいるぞ。これは覚えといてくれ」

 

 本紙の「小出勇退」の見出しを目にし、すぐ電話した。「僕ももう80だよ。そう、平成とともに去りぬ。ただ、(練習を)見に来てくれと言われたらいつでも行くよ。酒もタバコもやめたけど、駆けっこはやめられないな」。平成も、いよいよ残り1カ月……。

 

<この原稿は19年4月3日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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