創価大学陸上競技部駅伝部ヘッドコーチを務める久保田満は現役時代、世界陸上競技選手権大会に出場するなど日の丸を背負ったことのあるランナーだった。本格的に陸上を始めたのは、中村中学陸上部に入部してから。今回はその道筋を辿る――。

 

(2021年12月の原稿を再掲載しています)

 

 山、川と自然に囲まれた高知県中村市(現・四万十市)に生まれ、外で遊ぶことが好きだった久保田少年。本人によれば、中学の部活動は野球、サッカー、陸上の3択で悩んでいたという。親に相談すると、「陸上がいいんじゃない」とスパッと返ってきたことから、その道に進んだ。小学校の校内マラソン大会で結果を残してこともあり、はじめから長距離走を選んだ。

 

 中学時代は同学年のライバルを追いかけた。のちに高校、大学で同級生となる浜田智也が県内ナンバーワンの実力を誇っていた。「彼に負けじと頑張っていたら、自然と強くなっていきました」。高新中学駅伝競走大会には1年生から3大会連続で出場した。2年時は5区を区間3位、3年時は1区を区間4位で走り、大会2連覇に貢献する活躍を見せた。全国中学校駅伝大会にも2年連続で出場することができた。

 

 高知工業高校では、監督・野中三徳の指導を受け、チームのエースである1学年上の先輩の背中を追いかけた。夏を越え、駅伝シーズンを迎える頃には、中学時代は勝てなかった浜田にも走り勝ち、現在俳優として活躍する和田正人(当時3年)とチームの2、3番手争いをするまでに成長した。1年時から3年連続で全国高等学校駅伝競走大会に出場。2年時は準エース、3年時にはキャプテン&エースとしてチームを牽引した。

 

 高校卒業後、野中の勧めもあって東洋大学に進学した。当時、優勝経験こそなかったが、東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の常連校。久保田本人は「関東の大学のことは全く知らなかった」という状況だったが、信頼する恩師の勧めということもあり、四国を飛び出すことに迷いはなかった。

 

 しかし新春の風物詩、箱根駅伝には2年生までの2年、出場できなかった。東洋大は2年連続で予選会敗退。「完全に実力不足でした。チームとしても意識は低かった」。東洋大は低迷期を迎えていた時だった。

 

「我慢、集中、継続」

 

 久保田の3年時、2002年の春、東洋大はシドニーオリンピック男子マラソン日本代表の川嶋伸次を新監督に迎えた。川嶋は大胆な方策を執る。チームの主将を4年生から3年生の久保田に交代したのだった。

「監督に対する絶対的な信頼がありました。その監督が私を指名してくれたのであれば、間違いはないと思えた。『やらせてください』くらいの勢いで受けました」

 

 川嶋からは「我慢、集中、継続」という3点の重要性を説かれた。

「我慢にもいろいろな種類があることを教えていただきました。集中は余計なことを考えずにレースに臨む。その時の集中とは何なのか。ただレースのことを考えるのではなく、フォームや位置取り、呼吸を中心に置くことが集中に繋がる。最後の継続は我慢や集中をスタートからフィニッシュまで気持ちを継続させないと試合で結果を出せない。また練習で波があっては試合に繋がらない。良い時のイメージをどれだけ継続させられるか。シンプルな我慢、集中、継続という言葉ですが、自分に分かりやすく教えてくれた。そのことは今でも心の中に強く残っています」

 この3点は、指導者となった現在も久保田の信念として息づいている。

 

 川嶋の効果はすぐに表れた。東洋大は箱根駅伝予選会を全体2位で突破。全日本大学駅伝対校選手権大会は5位に入った。そして迎えた箱根駅伝本選、久保田は1区を任された。箱根駅伝は注目度も高く、特別な舞台だ。

「心は意外と落ち着いていました。スタート時、読売新聞社前は大勢の見物者が集まっており、自分が主人公になったような気分で気持ちが高揚したことを覚えています」

 

“オレたちの代で時代を変えてやる!”という強い気持ちで臨んだ久保田は、東京・大手町の読売新聞社前から鶴見中継所までの21.3kmを1時間4分53秒で走り、トップと17秒差の6位で襷を繋いだ。後続の選手たちも踏ん張り、総合6位でフィニッシュ。4年ぶりにシード権を獲得した。

「“自分たちの偉大な監督・川嶋さんの指導力を結果で表すことができた”という嬉しい思いでした」

 

 箱根駅伝の苦い思い出

 

 翌シーズンも久保田は引き続き主将を務めた。箱根駅伝では往路優勝を目指し、久保田は1区を任された。

「戦力は揃っていたし、昨年の実績もあり、自信が付いていたので、『これは往路優勝も行けるかも』とチームメイトと話していました」

 1区出走のランナー20人(19校+日本学連選抜)の中、久保田の1万m持ちタイムは3番目だった。当然、個人として区間賞を狙っていた。しかし、16kmで集団から離れてしまう。「かなり焦りました」と久保田。タイムは前年を上回る1時間3分50秒だったものの、順位は9位に終わった。

 

 駅伝は自分の区間を走ったら終わりではない。よほどのことがない限り、仲間たちの応援に駆けつけるのが常だ。久保田も襷を渡した後、居ても立っても居られず、電車・新幹線に飛び乗り、4区の小田原を目指した。道中で2区の同期・三行幸一が区間賞の走りで、8人をごぼう抜き。トップに立ったのだ。「私の失敗を取り戻してくれたので、泣きそうになりました」と久保田。この年の箱根は自身の走り以外にも苦い思い出がある。

 

 久保田の述懐――。

「新幹線に乗ったのはいいのですが……、こだまではなく、間違えてのぞみに乗ってしまい、新横浜から名古屋まで直行してしまったんです。チームの主将であるにも関わらず、1区でやらかしてしまうし、仲間が頑張ってトップに立ってくれている時に新幹線を間違え名古屋へ向かってしまった。小田原へ応援にも行けず、とても情けない気持ちを抱えながら、携帯電話で必死に情報を収集した苦い思い出です」

 

 東洋大の往路は後続の踏ん張りもあり6位。総合順位も前年に続く6位だった。2年連続のシード権獲得だ。

「内心物足りなさもありましたし、その原因を作った自分の区間9位という走りが何よりも悔しかった。ただメンバー10人中6人が同期でしたし、共に入学して戦い続けてきた仲間と最後に襷を繋げられたことは幸せでした。さらに言えば、10人中、私を含む3人が高知工業出身。高校時代は同じ下宿で生活したメンバーです。野中先生の教え子3人で結果を出したことで、“野中先生はやはり全国区の指導者であった”と実感でき誇らしかったです」

 個人としては悔しさいっぱいの結果となったが、最後は胸を張って卒業することができたという。

 

 04年春、オリンピアンを多数輩出した実業団の名門・旭化成に入社した。当時のチームは宗幸と忠幸の小島兄弟、佐藤信之、大野龍二らトラック、ロードで日本を代表する選手たちがいた。中学、高校はエース、大学でも主力として活躍してきた久保田でも、本人曰く「入社した段階では一番下」という位置付けだった。追いかけなければいけない背中はたくさんあった。しかし、学生時代と同様、それが彼を成長させる原動力だった。

 

(第3回につづく)

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久保田満(くぼた・みつる)プロフィール>

1981年9月30日、高知県中村市(現・四万十市)出身。中学から陸上競技を始める。中村中では高新中学駅伝競走大会に3大会連続出場。2年時からの2連覇、全国大会出場に貢献した。高知工業高校入学後は、全国高等学校駅伝競走大会に1年時から出場。3年時にはエースとなり、陸上部のキャプテンを任された。東洋大学では3年時に駅伝主将に抜擢され、東京箱根間往復大学駅伝競走に2度出場。2年連続シード権獲得に貢献した。卒業後は実業団の名門・旭化成に入社。2年目に初マラソンを経験し、07年にはびわ湖毎日マラソンで日本人トップの6位に入り、世界陸上競技選手権の代表に選出された。10年3月に現役引退。同年10月、旭化成からの出向というかたちで創価大学駅伝部コーチに就任した。14年から同大駅伝部の専任コーチとなり、現在に至る。

 

(文/杉浦泰介、写真/本人提供)

 

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