素朴な疑問がある。監督に「人望」は必要か? 引退記者会見でのイチローの「僕には人望がない」発言が耳目を集めたのは、誰にとっても比較的、身近なイシューだったからだろう。「社長に人望はいるのか?」「理事長に人望はいるのか?」「組合長に人望はいるのか?」。何にでも置き換えることができる。

 

 件の発言を引き出したのは次の質問だった。「(引退後)イチロー選手は何になるのか」。苦笑を浮かべて、イチローは答えた。「監督は絶対に無理ですよ。これは絶対が付きますよ。人望がない。本当に人望がないですよ、僕」

 

 やや偽悪趣味のあるイチローらしい受け答えだが、言葉の裏には「そもそも人望って、どうやって評価するんですか、皆さん?」という知的な挑発が潜んでいるように私には感じられた。

 

 過日、引退したばかりのサッカー元日本代表GK楢﨑正剛とヒザを交えて話す機会があった。11あるポジションのうちGKはたったひとつ。想定外のことが起きない限り、試合に出られるのはひとりだけだ。

 

 楢﨑はW杯に4回選出されたが、レギュラーとしてゴールマウスを守ったのは02年日韓大会だけだ。監督は数々の奇行で知られたフィリップ・トルシエ。およそ「人望」という言葉からは縁遠い御仁のように思われたが、「よく叱られた。でも使ってくれた恩は感じている」と楢﨑。そう、多少、性格に難はあっても、プレーヤーにとっては「使ってくれる」監督が一番いい監督なのだ。

 

 私事で恐縮だが、長くこの商売をやっていると後輩たちからよく聞かれる。「二宮さんが考えるいい編集長(者)の条件とは?」。答えは決まっている。「僕を使ってくれる人」。思想・信条は関係ない。そもそも書く機会が与えられなければ表現のしようがない。明日からおまんまの食い上げだ。それは世のサラリーマン諸氏だって同じだろう。「理想の上司」とは、すなわち自らを取り立ててくれる人に他ならない。自らを閑職に追いやった上司に対し、「でも、あの人には人望がある」などと誰が言うだろう。

 

 イチローだって仰木彬との出会いがなければ、まばゆいばかりの今の成功が用意されていたかどうかはわからない。人望は求めない。そのかわりオレにチャンスをくれ――。多くのスポーツ選手の本音はそれだろう。その意味で確かにスポーツの現場は生臭い人間社会の縮図である。

 

<この原稿は19年4月10日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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