プロスポーツ選手のセカンドキャリア支援の重要性が叫ばれて久しい。

 

 相撲界においても、昨年12月、元貴乃花親方が東大で「日本相撲界のイノベーション」と題した講義を行い、この問題を取り上げた。

 

 元親方がそうだったように、相撲界には中学卒業後、すぐに角界に身を投じる者が少なくない。三役とは言わないまでも、給料の出る十両までいけば大成功だ。だが大半の者は、関取になれないまま角界を去っていく。

 

 元親方も弟子たちの引退後の職探しには苦労したと語っていた。「やりたいことを聞いて、料理の道に進みたい子は料理学校に通わせたりしていました」。そこまで面倒を見ても、成功する者はほんの一握り。橋田寿賀子脚本のテレビドラマではないが「渡る世間は鬼ばかり」である。

 

 そんななか、東京五輪を1年後に控え、脚光を浴びている力士出身の大実業家がいる。ホテルニューオータニにその名をとどめる大谷米太郎だ。先場所、平幕優勝を果たした朝乃山の郷土の大先輩だ。

 

「私の履歴書 昭和の経営者群像5」(日本経済新聞社)によれば、米太郎は富山の<貧しい農家>の生まれで、<満足に小学校にも通えなかった>という。上京したのは31歳の年。それから紆余曲折を経て力士となり鷲尾獄(改名前は砺波山)の四股名で、<もう一場所勝てば十両入り>という地位にまで駆け上がる。しかし、田舎の草相撲で左手中指を失っていた米太郎は自らの限界を悟っていたようだ。マゲを切り、実業家への道を歩み始めるのである。

 

 周知のようにホテルニューオータニは東京の宿泊施設不足を補うため五輪前に開業した国際的なホテルだ。川島正次郎(当時の五輪担当大臣)、安井誠一郎(当時の都知事)、大倉喜八郎(ホテルオークラの創業者)ら政財界を代表する大立者からの創設依頼が米太郎を突き動かしたのである。

 

 数ある米太郎語録のひとつを最後に紹介しておく。「私の人生は、よく他人に七転び八起きの人生のように言われるが、外見には波乱に富んだ人生のように見えても、私自身としては階段を一段一段上がっていったもので、私は未だかつて転んだことはない」。セカンドキャリア支援の貧弱を嘆く前に、自らの足元をしっかり見つめ直し、踏み出すその一歩を鍛えよ、ということか。金言である。

 

<この原稿は19年6月26日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


◎バックナンバーはこちらから