菊池雄星(マリナーズ)、大谷翔平(エンゼルス)、そして佐々木朗希(大船渡高)。岩手県産の「怪物」が日米の球界を席捲している。

 

「時代も変わったもんだねぇ」。ゴマシオ頭をポリポリやりながら、焼き鳥を焼く姿は40年前と少しも変わらない。店の場所が東京の高円寺から岩手県雫石町に変わっただけだ。

 

 上森合直幸は1970年代、岩手県出身者としては数少ないプロ野球選手のひとりだった。72年から76年にかけてロッテに在籍し、74年、金田正一監督の下で24年ぶりの日本一に貢献した。といっても選手としてではなくバッティング・ピッチャーとして。

 

 彼は珍しい経歴の持ち主である。雫石の中学を卒業後、集団就職で田無市(現・西東京市)の重機メーカーに機械工として職を得た。

 

 夢はプロ野球選手。会社の軟式野球チームに所属しながら、秋になるとプロ野球の入団テストを受けた。受け始めて6年目の秋、初めて合格通知が届いた。ロッテからだった。

 

 契約金はゼロ、年俸60万円。最初のキャンプでいきなり挫折を味わった。後に320勝を達成する小山正明の球筋を見て腰も抜かさんばかりに驚いた。「もう引退間際なのにボールがスイスイいってる。あんなボール、どうすれば投げられるんだろう…」

 

 結局、5年間のプロ生活で、1軍出場はなし。本人の記憶では「2軍で2試合投げただけ。それも大沢啓二監督の温情でね」

 

 76年のオフ、金田監督に引退の挨拶に行くと、「なんでやめるんだ」とこっぴどく怒られた。「オマエがやめたらバッピーがいなくなるだろう」。故障知らずだけが取り柄だった。

 

 実は上京して初めて知り合った岩手県人が彼なのである。学生時代、高円寺の安アパートに帰る前、上森合が営んでいた焼き鳥屋で1杯250円のホッピーをひっかけた。「上(かみ)さん、村田兆治の剛球って、どれくらい凄いの?」。わざと焦がした焼き鳥の肉片を串で刺し、店の主は「まぁ、こんな感じかな」と私の鼻先に突きつけた。「受けるとグラブから焦げた匂いがするんだよ」

 

 岩手に出張すると、昔話がしたくて雫石にまで足を伸ばす。「オレは“井の中のカワズ”だったけど、雄星や大谷は大海で活躍している。佐々木君はどんなボールを投げるんだろうね」。私が焦げた串を指さすと、この夏、古希を迎える男はケラケラと笑った。

 

<この原稿は19年7月3日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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