二宮清純: 来月にアジア初開催のラグビーW杯日本大会(9月20日~11月2日)が開幕します。今年はゲストにサッカー元日本代表の柱谷哲二さん、ラグビー元日本代表の廣瀬俊朗さんをお迎えしました。サッカー界、ラグビー界を代表する名キャプテンのお2人とともに「キャプテンシー」をテーマに語り合います。柱谷さんはハンス・オフトさん、廣瀬さんはエディー・ジョーンズというアクの強い外国人監督の下でキャプテンを務めました。まずは柱谷さん。オフトさんはサッカー日本代表における初の外国人監督でした。

柱谷哲二: オフトさんはそれまでの「年功序列という日本独特の文化をなくそう」という考えを打ち出していました。ちょうどオフトさんが監督になる前、日本代表にラモス(瑠偉)さん、カズ(三浦知良)が入ってきた頃で、選手のプロ意識が高まっていました。

 

 ピッチ外での“銭闘”

 

二宮: 当時は代表の待遇改善が課題になっていましたね。

柱谷: ええ。代表の日当は1人1万円でした。勝利ボーナスはゼロ。我々はプロなので出場給や勝利ボーナス、優勝ボーナスがほしい。そこで「哲さんが言ってください」とメンバーに頼まれたんです。

 

二宮: その頃、まだ柱谷さんはキャプテンではなかった。既に代表内でも相当な信頼を寄せられていたんですね。

柱谷: 僕自身も新しいことにチャレンジしたいという思いもありました。

 

二宮: 廣瀬さんも日本代表時代、代表の待遇改善に動きました。

廣瀬俊朗: 僕らは日当が2~3000円でした。今は1万円になりましたが、出場給はありません。強豪国に勝つと勝利ボーナスはありましたが……。

 

<ゲスト>廣瀬俊朗(ひろせ・としあき) 1981年10月17日、大阪府出身。現役時代は東芝ブレイブルーパスでスタンドオフ、ウイングとして活躍。トップリーグ連覇に貢献した。日本代表には07年初選出。12年春に日本代表復帰とともに主将に就任した。14年に主将交代となったが、15年W杯イングランド大会の最終スコッド入り。過去最多の3勝をあげたチームの躍進に貢献した。16年に現役引退。現在はラグビーの普及活動に精力的に取り組んでいる。日本代表通算キャップ数28。

二宮: 選手からの不満は?

廣瀬: それで協会と話し合いを持ちました。キャプテンになって1、2年目はそういった話はしていませんでした。話し合いを持ったのはエディーさんの就任3年目。キャプテンが僕からリーチ・マイケルに変わった頃です。皆で話し合い、「このままでは次世代に繋げられない」とまとまり、そこから協会と交渉していくことになりました。

 

二宮: エディーさんから「あまり余計なことはするな」とは言われませんでしたか?

廣瀬: むしろ肯定的で、“自分たちの権利は主張しろ”という感じでしたね。

 

二宮: ピッチ内のことならまだしも、お金の交渉となるとなかなか大変でしょうね。

柱谷: 当時強化委員長だった川淵三郎さんの対応は早かった。91年のキリンカップはタイ代表、ブラジルの強豪バスコ・ダ・ガマ、イングランドの名門トットナム・ホットスパーと対戦しました。京都・西京極で行われた第2戦はバスコ・ダ・ガマが相手でした。その時に川淵さんから「哲、絶対勝てよ」と檄を飛ばされました。その頃は勝利ボーナスや優勝ボーナスがない時代でした。「優勝しても僕らには一銭も入らない。それはおかしくないですか?」と主張すると「わかった。優勝ボーナスをやるから優勝しろ」と。

 

二宮: 川淵さんは改革者です。言った相手が良かったのかもしれませんね。

柱谷: 僕はロッカールームに戻り、「今、協会の人が優勝賞金を分けてくれると言ってたぞ!」と言いました。それでチームはガッと盛り上がり、バスコ・ダ・ガマに2対1、トットナムに4対0で勝ち、キリンカップで優勝することができました。

 

二宮: ラグビーで賞金を分配することは?

廣瀬: 勝利給がありませんからね。ティア1と呼ばれる強豪国に勝つか、W杯で勝った時だけだと思います。15年のイングランド大会は代表のオフィシャルスポンサーである大正製薬さんから1人100万円をボーナスとしていただきました。

 

“食卓”を変える

 

二宮: 柱谷さんを日本代表のキャプテンに指名したのはオフトさんですか?

柱谷: そうだと思います。非常に光栄でしたが、“チームをまとめるのは大変だな”と感じていました。

 

二宮: 具体的な要求はありましたか?

柱谷: 最初に呼ばれた時に「どのグループにも属さず中立でいてほしい」と言われました。当時の代表は3つぐらいのグループに分かれていました。「君はバランスを取れる人間だから、3つのグループの壁をぶち壊し、1つのグループにしてほしい」と命じられました。

 

<ゲスト>柱谷哲二(はしらたに・てつじ) 1964年7月15日、京都府出身。現役時代は日産自動車、ヴェルディ川崎(現・東京V)でセンターバック、ボランチとして活躍し、チームの数々のタイトル獲得に貢献した。88年に日本代表選出。“ドーハの悲劇”と呼ばれたアメリカW杯アジア予選ではキャプテンを務めた。98年限りで現役を引退。解説者を経て、古巣東京Vを含む数々のJクラブで指揮を執った。現在は解説業のほか、花巻東高サッカー部のテクニカルアドバイザーを務めている。J日本代表通算72試合出場、6得点。

二宮: オフトさんは食事の際のテーブルを変えたと伺いました。

柱谷: 5人グループで食事をしていたのを、長いテーブルに変えました。それまではグループごとに円卓を囲んでいましたが、大きな1つの円をつくるようなかたちにしました。

 

二宮: 顔を見ながら食事をとれるようにしたんですね。

柱谷: 人って近くに仲が良い人がいると安心するじゃないですか。でもオフトさんは「それでは困る」と。「常に同じメンバーで食事をしていてはダメだ。他の人としゃべってくれ」と言われました。オフトさんはマツダでもコーチ、監督をやっていたので日本人のコミュニケーション能力の低さを感じていたんだと思います。

 

二宮: 「真実は細部に宿る」とは言いますが、そういう細かいところから詰めていく必要があったんですね。

柱谷: オフトさんは段階を踏みながら、いろいろと考えていた。僕とコーチの清雲栄純さんと3人で毎日のようにミーティングを行っていました。オフトさんの要求も聞きながら、僕は「日本代表にコミュニケーションルームをつくってほしい」と要望を出しました。それにより皆が集まれる場所ができたんです。

 

二宮: エディーさんもコミュニケーションを大事にする指導者でした。確か食事中の携帯電話の使用を禁止しましたよね。

廣瀬: エディーさんも同じように「日本人はコミュニケーションが下手」と感じていたようです。携帯電話を最初、禁止したことに関しては「もっとお互い話せ」ということでしょうね。先ほど柱谷さんがおっしゃっていたように、ラグビー日本代表でも同じグループに固まる傾向にありました。エディーさんは「いつも同じ人とご飯を食べるんじゃない」と、いろいろなメンバーとコミュニケーションを取れるように促していましたね。僕らリーダー陣も食事にグループで行く時はメンバー編成を工夫し、いつも同じ面子にならないように意識しました。

 

「犬じゃねぇんだよ!」

 

二宮: キャプテンやリーダーの仕事は多岐に渡りますね。廣瀬さんは以前、「キャプテンは人格者じゃないとチームメイトがついてこない。でも監督は人格者どうかよりも勝たせるのが仕事」とおっしゃっていました。エディーさんは特に「理不尽」だったとお聞きします。それでもついていこうと決めたのは?

廣瀬: “日本のラグビーを変えたい”という気持ちが一番大きかった。“この人なら日本のラグビーを変えてくれる”と信じられるプランを僕らに提示し、“ついていきたい”と思わせる人でした。

 

二宮: エディーさんは日本代表ヘッドコーチ(HC)に就任する前、03年オーストラリア代表HC、07年南アフリカ代表チームアドバイザーとW杯2大会を経験していました。一方、オフトさんはA代表の指揮を執るのは初めて。柱谷さんのオフトさんに対する印象は?

柱谷: そういった経験の無さを指摘する人もいましたが、僕には“この人が嫌だ”という選択肢はなかった。“もうこの人に賭けるしかない”と。監督の考えや目指すサッカーを皆に伝えることが僕の役目だと思っていました。

 

<聞き手>二宮清純(にのみや・せいじゅん) 1960年2月25日、愛媛県出身。スポーツジャーナリスト。スポーツ情報サイト「スポーツコミュケーションズ」主宰。

二宮: オフト体制の下、日本は初のW杯出場を目指しました。オフトさんは中心選手だったラモスさん、カズさんと衝突することもありましたね。

柱谷: ラモスさんは最初のキャンプで嫌になっていたみたいですね(笑)。オフトさんは指示が細かく、トレーニング中にピッピピッピ止めるんです。選手を集合させる時には指笛を鳴らす。「犬じぇねんだよ!」と。ラモスさんとは同部屋でしたが、すごくイライラしていましたね。

 

二宮: 戦術面でも対立があったと聞きました。オフトさんはサイド攻撃、ラモスさんは真ん中から攻撃を仕掛けたい。

柱谷: だからラモスさんには「良い悪いじゃなく、まずはやってみよう。ダイナスティカップでダメだったらバシッと言おう」と説得しました。監督の要求に応えるのが選手。それを実行してから文句を言おうと。ただ自分のチームづくりで決めたことは“言いたいことを言い合える間柄にしないとダメだ”ということです。上下関係をなくし、初代表の選手でも言いたいことは言うべきだと考えていました。

 

二宮: チーム内の“風通し”を図ったんですね。

柱谷: 言い合っても、チームを良い方向に持っていければいいんです。一番ダメなのは後からグチグチ言ったり、陰で言うこと。そういう選手に対しては「日の丸をつける資格はない」とはっきり言いました。

 

二宮: 廣瀬さんも2012年に日本代表のキャプテンを任されました。2、3人で行う少人数のミーティングを実施したそうですね。

廣瀬: 僕らは2人1組のバディー制度を敷いていました。練習の前後に話し合い、「今日の練習はここを大事にしよう」「今日の練習はここが良かった」などとアプリで共有していました。

 

 結果で信頼を築いた

 

二宮: エディーさんは「地獄のトレーニング」と言われるほど、選手に厳しい練習を課しました。それ対する不満は?

廣瀬: 当然、不満もありましたが、厳しさより選手の意見を聞いてもらえないことに対するものの方が大きかったと思います。その意味でも先ほどのバディー制度は話し合うことで、選手の不満が溜まりすぎないようにうまく“ガス抜き”ができていた。いい制度だったと思います。

 

二宮: ラグビーにしろ、サッカーにしろ結果が出れば監督に対する信頼度も上がります。エディージャパンは2012年秋のヨーロッパ遠征で結果が出始めた頃に監督の求心力が高まりました。

廣瀬: あれは大きかったですね。日本代表がアウェーでヨーロッパ勢に勝つのは初めでしたから。僕たちは厳しいトレーニングを積み、強くなっていることわかっていました。しかし、それが試合で発揮できなければなかなか実感できない。結果が出なければ不満も出てきます。結果が出たことで、“エディーさんのやり方は間違っていない”と信頼が深まりましたね。

 

二宮: それはオフトさんも同じ?

柱谷: 一緒ですね。オフトさんは就任1年目の1992年夏のダイナスティカップで優勝しました。特にダイナスティカップは前回大会で1点も取れずに最下位でした。それが92年は内容もパーフェクトで勝つことができた。選手たちも“やってきたことは正解だったんだ”と分かった。ただ1人を除いては……(笑)。

 

二宮: ラモスさんですね(笑)。

柱谷: ところがアメリカW杯予選の時にはもう、すごくいい仲になっていましたね。ただ92年のアジアカップ前に雑誌にオフト批判が漏れたことがありました。この年のアジアカップは初の日本開催。どうしても結果を出したかった。僕はキャプテンとして皆に「お願いがある。これから文句を言うヤツは辞めてくれ」とハッキリ言いました。ダイナスティカップで優勝し、チームは良い状態になっていた。皆は分かってくれたけど、ラモスさんだけは納得していなかった。それでラモスさんとは個別に話をしました。「オフト監督が本当に嫌なら代表を辞退してください」と。

 

二宮: その時のラモスさんの反応は?

柱谷: ビックリしていましたね。“何でそんなことを言うんだ”というような表情でした。僕もオフトさんもチームにラモスさんが必要なのは分かっている。でも特別扱いはできない。僕と話し合った後、ラモスさんとオフトさんは話し合ったそうです。それから急に仲良くなった。次のキャンプからは“何だこれ”というくらいの変わりようでしたよ(笑)。

 

(後編につづく)

 

(構成・写真/杉浦泰介)