1日(日本時間2日)、肺がんによる合併症のため76歳で死去した元プロレスラーのハーリー・レイスは若かりし頃、日本ではハリー・レイスと呼ばれていた。新聞や専門誌の表記もハリーだ。それが、ある日突然、ハーリーになった。単なる音引きの問題だろう、と言われればそれまでだが、名は体を表す、とばかりにファイトスタイルにも変化が認められるようになった。

 

 AWAのリングを主戦場に、ラリー・へニングと組んでディック・ザ・ブルーザーやクラッシャー・リソワスキー相手に大立ち回りを演じている頃のレイスは、鉄火場をうろつく売り出し中の用心棒のようにギラギラしていた。ファイトスタイルはスピーディーでシンプル、そして野蛮。その暴れっぷりを伝える専門誌の表記は「ハリー」だったと記憶している。

 

 余談だが、レイスが「ハンサム」と名乗るようになったきっかけは、相棒のへニングのニックネームが「プリティボーイ」だったからだといわれている。人をくったようなニックネームは、いかにもプロレス的である。

 

 ハリーからハーリーになったレイスはレスリングでも“間”を重視するようになった。それを体現したのが滞空時間の長いブレーンバスターである。キラー・カール・コックスのそれが垂直落下型の、文字通りの”脳天砕き“だったのに対し、レイスの場合は、落とす角度や音にこだわるなど外連味たっぷりなのだ。ハリーの時は試合の運び方がもっと直線的だった。

 

 ハーリーになってからのレイスは、コーナーポストに上るのにも時間をかけるようになった。トップロープに足をかけた時には、もう相手は立ち上がって待ち受けているのだ。そして、お決まりのデッドリー・ドライブ。要するに自爆なのだが、背中からマットに叩きつけられる際の受け身の巧さは、惚れ惚れするほどだった。

 

 レイスはプロレス界最大の団体であったNWA世界ヘビー級王座に計8回も就き、“ミスタープロレス”と呼ばれたりもした。

 

 日本での呼び名が「ハリー」から「ハーリー」に変わったことを、本人はどう思っていたのだろう。いや、知らなかったかもしれない。しかしオーバーアクションが絵になり始めたのは、少なくとも私の記憶では「ハーリー」になってからである。昭和プロレスの残り火が、またひとつ消えた。

 

<この原稿は19年8月7日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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