今から、ちょうど50年前の話である。第51回全国高校野球選手権大会決勝で四国の名門・松山商(愛媛)と対戦し、延長18回引き分け。翌日、再試合の末に2対4で敗れたものの三沢(青森)のエース太田幸司は27イニングを、たったひとりで投げ抜いた。これにより太田は高校野球史におけるレジェンドとなった。

 

「青森県 太田幸司様」。それだけでファンレターが自宅にまで届いたというのだから、その人気ぶりは推して知るべし、だろう。

 

 半世紀もたてば、歴史の隅に埋もれてしまった伝説もある。大会後、太田は選抜チーム、今でいう高校日本代表の一員としてブラジル遠征に参加し、なんと完全試合を達成しているのである。これは親善試合ながらブラジルの野球史に刻まれた国際試合における初の完全試合とも言われている。

 

 9月6日(現地時間)、舞台はパラナ州マリンガ。遠征7戦目、先発の太田は決勝を戦った松山商の大森光生とバッテリーを組んだ。地元チームのマリンガは高校生や社会人もいる混成チーム。レギュラー全員が日系人だった。

 

 太田にとって、いや、ほとんどの日本人選手にとってブラジルは初めて訪れる異国だった。「外国はもちろん、飛行機に乗ったのもこれが初めて。それがいきなり地球の裏側ですから…」

 

 甲子園で942球も投げた太田だが少し休んだだけで体力は回復していた。ブラジルでは調子がよく、本人によると「楽しんで投げられた」。相手のレベルが低かったことは否めない。しかし、だからと言って完全試合が、そう簡単に達成できるわけはない。大記録の最大の敵はボコボコ状態の赤土のグラウンドだった。

 

 ブラジル製のボールも指に馴じむのには時間がかかった。日本製に比べると重く、皮も粗末だった。それが原因で太田は帰国後、ヒジ痛に悩まされた。

 

 完全試合の最大の危機は8回、1死から代打で起用された選手が左中間に放った大飛球だった。これを好捕したのが静岡商の藤波行雄。74年に中日に入団し、新人王に輝いた、あの藤波である。

 

 スコアは15対0。球数114。アウトの内訳は内野ゴロ7、内野フライ4、外野フライ2、三振14。「四球がひとつもないのが僕らしくないですね」。地球の裏側でのパーフェクトゲーム。北国のエースと呼ばれた男の、もうひとつの伝説である。

 

<この原稿は19年8月14日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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