右肩下がりとは、このことだ。日本高校野球連盟の統計によると、参加校数、部員数ともに減少の一途をたどっている。

 

 

 硬式野球部は05年度の4253校をピークに減り続け、今年度は3957校。14年度、

17万312人もいた部員は、今年度は14万3867人。

 

 いくら少子化とはいえ、他の競技と比べてみても、野球部、野球部員の減り方は尋常ではない。

 

 理由はたくさんある。練習時間が長い、坊主頭を強要される、高圧的な指導が多いといった部活そのものへの不満から、用具代が高い、遠征支援など親の負担が大きいといった経済的なものまで多岐に渡る。

 

 高野連によると、今夏、部員不足による連合チームは86(234校)を数えた。最低でも9人いないと1チームつくれないわけだから、これは致し方ない。今後、連合チームは、さらに増えていくだろう。

 

 私見を述べれば、部員数の減少や連合チームの増加は、必ずしも悪いことばかりではない。というのも、部活の本来の目的は「機会保障」に他ならないからだ。

 

 それがいつの間にか勝利主義が幅をきかせるようになり、レギュラーになれない選手は「3年間、球拾いばかりやらされた」り、「ベンチで声ばかり出し」たりすることが、美徳とされるようになってきた。まるで滅私奉公である。

 

 歯に衣着せずに言えば、昭和から平成にかけての高校野球は肥大化し過ぎていた。高校野球を「教育の一環」と位置付けるなら、今こそ身の丈に合った運営を目指すべきではないか。

 

 ここにきてのチーム間の“格差”は目に余る。100人前後の部員数を抱える強豪校がある一方で、9人揃えるのがやっとの弱小校も、少なくない。

 

 教育を受ける権利は、ひとしく日本国憲法(第23条、26条)で保障されており、基本的にどこの高校に進もうが、それは本人の勝手である。とやかく言われる筋合いはない、と言われれば、その通りだ。

 

 しかし、志望する学校に進み、野球部に入ったはいいが、人数が多過ぎて満足に指導も受けられないようでは本末転倒である。逆にそれはスポーツの本義を冒とくしている。

 

 先述したように部活の原点である「機会保障」を担保するには、そろそろ部員数の「総量規制」に乗り出してもいいのではないか。

 

 高野連は投手の故障予防を目的に、球数の「総量規制」に関する議論を始めたばかり。その議論を部員数にも広げるべきである。

 

<この原稿は『週刊漫画ゴラク』2019年8月16日号に掲載されたものです>

 


◎バックナンバーはこちらから