公序良俗がなんだ、とばかりに乱闘シーンをポスターに使用した球団がある。西鉄の後身の太平洋クラブだ。ドン・ビュフォードがロッテ監督の金田正一を横倒しにし、後ろから首を締め上げている写真が手許にある。「博多の街に血の雨が降る」との走り書きは、明らかに誰かが書き足したものだろう。

 

 1974年4月27日、川崎球場。4回裏に事件は起きた。ロッテの弘田澄男がタッチアップから本塁を駆け抜けようとしたその時、太平洋のキャッチャー宮寺勝利が左足をすくったのだ。弘田は空中で1回転し、尻から地面に叩き付けられた。本塁を踏み損なった弘田を宮寺が追っかける。その宮寺を蹴り上げたのがカネやんだった。「あんな危険なプレーはない。捕まえてやろうと思ったら、オレが倒されてしまったんだ」

 

 カネやんをタックルで倒したビュフォードには、学生時代、アメフトの経験があった。一塁から竹之内雅史も加勢し、カネやんに馬乗りになる。ロッテベンチからは得津高宏が出撃し、殴り合いが始まった。この大乱闘をビジネスチャンスと考えたのが太平洋球団社長・坂井保之である。

 

 プロ野球の仕事に就くまで外資系のPR会社に勤務していた坂井にとって宣伝コピーはお手のもの。「平和台は元々、福岡城、鴻臚館があった場所。“そんな由緒ある舞台を暴虐のロッテ軍団に荒らされていいのか”とあおったわけですよ」

 

 当時のライオンズは独立採算制で太平洋クラブとは、今でいうネーミングライツ契約。スポンサー料も滞りがちで、入場料収入頼みの、その日暮らしのような経営を続けていた。

 

 そんな時期に発生した福岡市民激怒の大乱闘事件。坂井にとっては“慈雨”だった。「ポスターのおかげで、その後の平和台でのロッテ戦は全て満員。ウチが生き残るには、あれしか選択肢はなかった…」

 

 カネやんも、心得たもので、福岡では悪役に徹した。太平洋の球団取締役だった青木一三の「博多の人は祭りとケンカが大好き。ファンを刺激してほしい」という要望に「よっしゃ!」と二つ返事で答えたという。その結果、平和台ではカネやん目がけてビールびんが投げつけられ、機動隊が出動する騒ぎに発展した。両球団の遺恨劇は2シーズンに及んだ。

 

 知られざるパ・リーグ秘史、いや悲史。400勝の栄光に埋もれたカネやん、男気の物語――。黙祷。

 

<この原稿は19年10月16日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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