スポーツマンシップに欠ける、との指摘に反駁する気はまったくない。スポーツマンたるもの、たとえ望みがかなわなかったとしても、出た結果については、潔く受け入れるべきだろう。

 

 さる2日、44日間に渡る熱戦を終えたラグビーW杯日本大会。決勝で南アフリカに敗れたイングランドの選手たちが銀メダルを拒否する姿に批判が集まった。

 

 一方で英国メディアの中には選手たちのとった行動に理解を示す言説も散見された。たとえば、「デイリーメール」のジェームズ・ハスケルという記者は、<エリートのプレイヤーたちが最後のハードルを飛び越えるのに失敗した時、彼らがどんな思いになるかを理解する人々はわずかしかいない>と選手の心情に寄り添ったコラムを書いていた。

 

 それが紳士的な行為といえないことは重々承知しつつも、実は秋風の吹く横浜のスタジアムで、私もハスケル記者と同じような気持ちを抱いていた。

 

 既視感がある。1984年ロサンゼルス五輪で、銅メダルに輝いたにもかかわらず、女子バレーボール日本代表の選手たちは表情を消し、次々に首からメダルを外し始めた。望んだ色のメダルではなかったからだ。

 

 キャプテンを務めた江上(現・丸山)由美の第一声は「すみません」だった。なぜ謝罪したのか?「銅メダルはもらったものの、何かしっくりこないんですね。それが難しいこととはわかっていながら、表向きには“一番いい色のメダルを狙う”と言っていましたから…」

 

 女子バレーボールの歴史は栄光に満ちている。五輪では64年=金、68年=銀、72年=銀、76年=金。彼女たちは「金メダル以外は負け」という“歴史教育”を受けて育ち、鍛えられてきた。それが、“東洋の魔女”以来連綿と続いてきた彼女たちの誇りと気丈の源泉でもあったのだ。

 

 江上が実家のタンスの引き出しに眠っていた銅メダルを取り出し、バレーボールを始めたばかりの2人の娘に見せたのは、そう遠い昔のことではない。「望んだ色ではなかったけど、バレーボールにかけた時間は本当に濃いものだった。(メダルは)その証なんでしょうね」。結果を受け入れたのではない。人生を受け入れたのだと彼女は語っていた。

 

 月日が過ぎればメダルが発する色も昔とは、また違って見えてくる。それは「濃い時間」を生きた者にのみ与えられた特権でもある。

 

<この原稿は19年11月6日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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