IOCによる突然のマラソン・競歩会場の札幌変更を受け、<日本人は「お上」の「決め事」の前に、常に無力である。これに「外圧」が加われば、為す術もない>と書いたのは、ちょうど4週間前である。

 

 その際、02年サッカーW杯の日韓共催の顛末を例に引いた。投票日の直前まで日本の招致委は「FIFAのルールに共催はない」と高をくくっていたが、一夜にして書き換えられたことを紹介した。

 

 札幌への突然の変更は、その方向性の是非はともかく、欧州に本拠を置くスポーツの「家元」の強権に屈したという意味において、日本スポーツ”第2の敗戦”だと私は考えている。

 

 4週間前の小欄には、<ルールは「作る」「守る」「変える」の3段階からなる>とも書いた。日本人がルールに対しナイーブなのは<「校則(ルール)を守る子」がいい子>という教育からスタートしているからだとも。

 

 しかし、火の粉は思わぬところから飛んできた。教育者やスポーツの指導者を名乗る者から、「校則は守るものだ」「ルールに従わずして何を守るというのか」といった内容の手紙を何通か頂いた。

 

 批判は甘んじてお受けするが、考え方を改めるつもりは毛頭ない。あなたルールを作る(欧米)人、私ルールを守る(日本)人、といった状況が続く限り、ルールに端を発するフラストレーションは払拭できないのではないか。今こそルールづくりへの参加を積極的に促す教育を、学校の現場において推進すべきだというのが私の考えである。

 

 たとえば高校野球。この4月に高野連が設けた「投手の障害予防に関する有識者会議」が先頃、球数や連投に関する答申をまとめたが、なぜ、会議のメンバーの中に、当事者たる高校生は、ひとりもいないのか。高校野球が「教育の一環」というのであれば、私立の強豪校から部員数の少ない公立校まで目配りした上で、球児の代表者を選び、明日の高校野球の在り方を見据えて議論させてもよかったのではないか。それをオブザーバーとして参加した「有識者」がサポートするかたちで答申をまとめるという建て付けにして欲しかった。

 

 グラウンドの指導だけが教育ではない。ルール作りに参画した経験は、彼らの将来に大きなプラスになったはずだが…。

 

<この原稿は19年11月20日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


◎バックナンバーはこちらから