人間、誰しも失敗はある。
大切なのは失敗した後。「悔しさ」をどう己の成長に結びつけていけるか。
その意味において、那須大亮の現役人生は「不屈」という言葉が実によく似合う。失敗した後、何が大切かを教えてくれる。
彼は先日、今シーズン限りで18年間のプロキャリアを終えることを表明した。ヴィッセル神戸2年目の今シーズンはリーグ戦の出場はなく、YBCルヴァンカップ3試合、天皇杯1試合の出場にとどまっている。クラブの公式サイトで、数年前からヘディングをした際に「脳が揺れる」現象があったと告白。「100%で走り続けてきたサッカー人生。100%でやれていない自分に気づかされた」と引退に踏み切った理由を口にしている。
駒沢大学在学時の2001年、横浜F・マリノスに入団し、東京ヴェルディ、ジュビロ磐田、柏レイソル、浦和レッズ、そして神戸と6クラブを渡り歩いてきた。山あり谷ありの現役生活で、J1通算400試合に出場。火傷しそうなほどの熱いプレーでファンの心をつかみ、どのクラブでも愛された存在であった。
大きな試練となったのが、2004年のアテネオリンピックだった。
キャプテンマークを巻き、強い気持ちを持って臨んだグループリーグ初戦のパラグアイ戦。決勝トーナメントに進むには、この初戦こそがカギだと言われていた。
しかし彼の強い気持ちは空回りしてしまう。開始5分、味方が競り負けてゴール前に入ってきたボールに対し、クリアが遅れたところを相手にカットされて先制点を許してしまった。この失点は明らかにチームの動揺を誘い、前半だけで3点を失う。那須は前半で交代を告げられ、ベンチに下がった。
のちに彼はこう語っている。
「前日に公式練習でスタジアムを使えなくて、ピッチの感触をつかむまでに時間が掛かりました。ガッと足に力を入れたら滑ってしまった。あの失点によって、自分のいつものプレーが出せなくなってしまった」
勝負の初戦を落とし、那須は心機一転のつもりで頭にバリカンを入れて丸刈りにした。しかし次戦以降、スターティングメンバーから外され、チームもグループリーグ敗退に終わった。
この悔しさをぶつけたい――。
しかし帰国後は、無理に気持ちをたきつけようとする分、パフォーマンスは上がらず、横浜FMでも控えに回ることが多くなった。
ならば、とここで意識を変えることにした。「試合に出られないといきこそ、できることがあるんじゃないのか」と。
真の意味で彼のターニングポイントだったのかもしれない。
「試合に出ている選手はコンディションを考えなくちゃいけないけど、出られないのならヘディングの練習でも、対人の練習でもガンガン追い込める。ヘディングは相当、やりましたね。高さだったり、滞空時間を伸ばすために筋トレで身体能力を上げて、グラウンドではタイミングのつかみ方だったりをやりましたね」
移籍した東京Vではキャプテンを務め、センターバックでコンスタントに出場した。だが残留争いを抜け出せずにJ2降格となり、翌年は磐田に渡った。ここでは3シーズンにわたってレギュラーを張ったが「現状に甘んじたくない」と柏に移籍。そして翌年からは浦和の一員となる。
移籍を繰り返してきたのは“試合に出られそうだから”じゃない。常に、刺激ある環境でレベルアップを図りたいと考える人だった。
実際、柏や浦和では試合に出られない時期もあった。心が折れそうになったこともあった。だがアテネ後に苦しんだ経験を活かし、日々のトレーニングに打ち込む強度を上げていった。それは焦りに起因するものではなく、あくまで原点に立ち戻ってレベルアップを図ろうとするポジティブな思いからであった。
柏時代には自分のサッカーノートに、こうつづっている。
「悩みを忘れるぐらい走っているのか? 体を張れているのか?がむしゃらにやっているのか? 一生懸命やっているのか?」
アテネが終わって、あのとき気づかされたときもそう。自分を見失いそうになるときこそ、自分の原点、自分のポリシーに立ち返るのが那須大亮であった。あのアテネでの悔しさが、彼を息の長いプレーヤーにしたとも言える。
100%で走り続けてきたサッカー人生。
その言葉に、一点の曇りもない。
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