「先生よりも、どうやら生徒の方が力関係が強くなってしまっている。厳しく教えることが難しい時代に、誰が教育するのか」。イチローが、自ら大会会長を務める学童野球の閉会式で口にした言葉だ。これをイチローの個人的見解で片付けるのではなく球界、いやスポーツ界全体に向けた問題提起ととらえたい。

 

 夏頃、小欄で、この国は論調の振り子が、右から左へ、あるいは左から右へと極端に振れ過ぎる。中庸の精神で事に当たるべきではないか、と書いた。

 

 端的な例として「教育」と「労働」を取り上げた。知識偏重型の教育方針を是正するかたちで1980年代初頭にスタートした「ゆとり教育」は、2000年代に入って学力低下が指摘され始めると「脱ゆとり」に舵を切った。これなどは“失われた20年”ならぬ“カラ騒ぎの20年”の典型例だ。

 

 労働現場も同じだ。バブル崩壊前に流行した「R」という栄養ドリンクの「24時間戦えますか!?」という宣誓口調のCMは、世界にはばたく「ジャパニーズ・ビジネスマン」に向けた、いわば“平成の軍歌”だった。それが今では「働き方改革」である。「24時間働け」なんて狂気の沙汰。残業時間が月に45時間を超えようものなら、すぐに労働基準監督署が飛んでくる。揚げ句、「ブラック企業」と負のレッテルを貼られ、社会的信用を失うのがオチだ。

 

 散々、労働力を搾取した「女工哀史」のような世界は論外として、「勤勉」「勤労」は日本人の美徳ではなかったのか。スポーツの世界も「スパルタ」はすっかり影を潜め、今じゃ「おててつないでゴールイン」である。

 

 22日の夜、NHKで再放送された<最後の講義「物理学者 村山斉」>に見入ってしまった。宇宙の神秘の解明に挑み続ける村山によると、日本は世界的には「無視できるほどの鉱物資源しかない国」という位置付けなのだという。そんな“持たざる国”が世界に伍するには何が必要か。畢竟、人こそがこの国の最大の資源ではないかとの結論に至る。

 

 では人的資源を資産に変えるにはどうすべきか。「最終的には自分で自分のことを鍛え、教育しなければならない時代に入ってきた」とイチロー。海図なき時代、生き残るにはひとりひとりがプレーイングコーチになるしかないということか。思案に暮れる年の瀬である。

 

<この原稿は19年12月25日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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