さる6月19日、約3カ月遅れでプロ野球が開幕しました。7月10日から一部観客を入れる予定ですが、現在は無観客で行われています。ミットにボールが収まる音や打球音。さらにはベンチの声もよく聞こえ、例年とは違う雰囲気でゲームが進んでいます。


 そんな中、昭和のパ・リーグを経験した球界OBは「昔はほとんど無観客試合のようなものだったよ」と冗談まじりに話す人も少なくありません。スポーツコミュニケーションズ編集長・二宮清純が元ロッテの得津高宏さんから聞いた話です。

「本拠地の川崎球場の入場者数は公式発表では2500人とか3000人とか言っていたけど、あれは年間予約席まで入れての数字。実際には100人から200人くらいだったんじゃないかな。なにしろベンチからお客さんを数えることができたからね。あるときなんて、外野スタンドを見ていたら、サラリーマンが水の入ったバケツと竹の筒を持ってきている。何やるのかと思ったら、流しソウメンをやっとったな(笑)」

 

 得津さんはさらに続けます。
「また当時は球場に競輪場が隣接していた。デイゲームになると三塁側の内野スタンドに人だかりができる。野球は見ないで競輪を見とりましたよ」

 

 さて、そんな川崎球場ですが、日本中のプロ野球ファンの視線を集め、超満員満員札止めに膨れ上がったことがあります。1988年10月19日、仰木近鉄がリーグ優勝をかけ臨んだロッテとのダブルヘッダー、いわゆる伝説の「10.19」です。近鉄が2連勝すれば優勝というこの試合、普段は閑古鳥が鳴いていたスタンドは超満員に膨れ上がりました。入りきれないファンが幾重にも球場を取り囲んだものです。

 

 第1試合は近鉄が土壇場の9回に勝ち越し、4対3で勝利しました。7年ぶりのリーグ優勝まで、あと1勝です。第2試合、4対4で迎えた9回裏、ロッテの攻撃中に“事件”は起きました。無死一、二塁でセカンド牽制のタッチプレーを巡る有藤通世監督の抗議で試合が中断したのです。当時、パ・リーグの延長規則は「12回まで。ただし4時間を超えて新しい回に入らない」というものでした。この時点で試合は既に開始から3時間30分を超えており、優勝するには勝つしかない近鉄にとっては、1秒たりとも無駄にすることができません。ところが、有藤監督の抗議は10分近くに及び、結局、延長は10回で打ち切り。4対4で引き分けた近鉄は時間に負けた格好になりました。

 

 元ニッポン放送のアナウンサーで現在フリーの松本秀夫さんは当時、ベンチレポーターとして現場にいました。
「ニッポン放送に入ってロッテ番になり、川崎球場には本当によく通っていました。いろいろな試合を見てきましたが、やはり一番の思い出といえば10.19にとどめを刺します。印象的だったのは2試合目の9回裏、有藤監督の抗議中、ベンチ裏の通路で近鉄の金村義明選手とすれ違った。彼は手首を骨折して出場できず、ネット裏から試合を見ていたんです。その金村が包帯をぐるぐる巻きにした手でネットを叩きながら、泣いているんです。『抗議やめろ、はよ試合始めろ!』って。彼の泣き声とネットを叩くガシャンガシャンという音は今も耳に残っていますよ」

 

 91年オフ、ロッテが千葉へ移転し、その後、川崎球場を本拠地とする球団は現れませんでした。2000年にはスタンドが撤去され、現在は富士通スタジアム川崎として、アメリカンフットボールや軟式野球、パラスポーツなどに利用されています。川崎球場時代の遺構として残るのは外野フェンスの一部と照明灯だけです。

 

 現在、この遺構を川崎市の文化財として残そうと、松本さんが世話人となり富士通スタジアム川崎、ファン有志である「純パの会」が活動しています。文化財登録を市に働きかけるために集めた署名は379人にのぼりました。署名には76年に700号本塁打を川崎球場で打った王貞治さん、ロッテで活躍した牛島和彦さんも名を連ねています。19年10月、署名と請願書が市に提出され、今年2月に市議会まちづくり委員会において全会一致で趣旨採択されました。今後は文化財登録に向け市議会定例会に諮られることになっています。

 

 10.19や王さんの700号の他、張本勲さんが3000本安打を記録したのもここ川崎球場でした。高橋ユニオンズ、大洋ホエールズ(横浜DeNA)、ロッテ・オリオンズの3球団が本拠地として使い、様々な名勝負、名場面の舞台となりました。後世に遺し、語り継ぎたい昭和プロ野球のレガシーです。

 

(文/SC編集部・西崎)


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