コロナ禍による給付金ならぬ給付土である。阪神と阪神甲子園球場は日本高野連に加盟する3年生野球部員全員に「甲子園の土」が入ったキーホルダーを贈ることを発表した。

 

 

 キーホルダーを作成するにあたっての土集めには、矢野燿大監督や選手たちも参加するという。

 

 負けた選手たちが涙ながらに土を袋に詰め、持ち帰るのは夏の甲子園の風物詩だが、この“儀式”はいったいいつから始まったものなのか。

 

 これには諸説あるが、文献に残されている中では1937年夏、準優勝した熊本工のエース川上哲治が最古だ。しかし、それ以前にも土を持ち帰る選手はいたという。

 

 甲子園の土が一躍、注目を集めたのは1958年の夏だ。戦後初の沖縄代表として出場した首里の選手が持ち帰った土が那覇港の税関で植物防疫法に引っかかり、没収された挙句、海に捨てられてしまったのだ。

 

 当時の沖縄は米軍の統治下に置かれていた。本土復帰を果たすのは、この14年後である。

 

 甲子園の土を拾い集めるシーンで、私が最も印象に残っているのは1969年夏である。松山商(愛媛)と三沢(青森)の決勝は延長18回引き分け。翌日、再試合の末に松山商が4回目の優勝を果たすのだが、最大のヒーローは、ひとりで27イニングを投げ抜いた三沢のエース太田幸司だった。

 

 貴公子と呼ばれた太田の人気が、いかに凄まじかったか。それは「青森県 太田幸司様」と書かれたファンレターが学校に届いたというエピソードからも明らかである。

 

 敗れた太田は、優勝校の校歌斉唱など一連のセレモニーが終わった直後、足早にマウンドに走り、甲子園の土を袋に詰め始めた。これまで土集めはベンチ前という習わしがあったが、太田は自分の汗の染み込んだマウンドの土にこだわったのである。

 

 本人は「無意識のうちにそうしていた」と語ったが、これが未だに色褪せない甲子園の名シーンである。

 

<この原稿は2020年7月6日・13日号『週刊大衆』に掲載されたものです>

 


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