長く生きていれば、時計の針を戻し、もう一度やり直したいと思う出来事が、誰にだってひとつや二つはある。さる21日、急性心筋梗塞のため54歳で急逝したトンガ出身の元ラグビー選手、ワテソニ・ナモアにとって、その日に起きた一瞬の出来事は、彼のその後の人生を支配するほど大きなものだった。

 

 1991年1月8日、東京・秩父宮ラグビー場。第43回全国社会人大会決勝。3連覇を目指す神戸製鋼と悲願の初優勝を狙う三洋電機(現パナソニック)の一戦は16対12と三洋がリードしてインジュアリータイムに突入した。時計は42分を指していた。敬虔なクリスチャンでもある三洋のWTBナモアは「悪いことが起きませんように」と祈った。

 

 ラストワンプレー。神戸はNO.8大西一平がサイドアタックを仕掛け、ラックから出たボールをSH萩本光威が拾い、SO藪木宏之につなぐ。藪木が倒される寸前に出したパスはハーフバウンドしてCTB平尾誠二の手におさまった。平尾はFL飯島均のタックルを受けながらも、右サイドのWTBイアン・ウィリアムスにパス。このパスは無情にもナモアの頭上を越えていった。

 

 逃げるウィリアムス、追うナモア。50メートルの大捕り物は、元豪州代表に軍配が上がった。これで16対16。追い方次第では、中央まで回り込まれることはなく、コンバージョンによる2点は防げたのでは、との指摘もあったが、何を言っても後の祭りだ。

 

 しばらくして群馬県大泉町にあった三洋の練習場を訊ねた。案内された社宅の自室の壁には屈辱のトライシーンの写真が貼られていた。「悔しさを忘れないためだ」とナモアは語った。

 

 写真のナモアの右手は、かすかにウィリアムスの奥襟に触れていた。その点を質すと「神様を信じていたのに……」と力なく笑った。

 

 大東大、三洋で2年先輩にあたる飯島は三洋のグラウンドでの、その後のナモアの奇妙な練習を目撃している。ハーフウェーラインから、誰かを追うように全力で走るのだ。「ウィリアムスの影を追っかけているのではないか」。失敗を繰り返さないようにと苦い記憶をトレースしていたのである。「顔を近付けるとワテ(愛称)の口ぐせであるサイペ(トンガ語で大丈夫)という言葉が聞こえてきそうで…」。飯島によると棺の中のナモアは、いつも通りの笑顔だったという。合掌。

 

<この原稿は20年12月30日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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