これをご都合主義と呼ばずして、何と呼べばいいのか。ケバン・ゴスパーIOC元副会長(IOC名誉委員)の発言が物議をかもしている。組織の中枢にいる人物ではないとはいえ、看過できるものではない。18日付の本紙から引く。<新型コロナウイルスの感染再拡大により開催が危ぶまれる東京大会について「単なるスポーツの問題や国益に関連する問題を超えている」と指摘。「第三者を探している場合は国連に行き、大会をこのまま進められるか解決や関与を求めてみてはどうか」と話した>。要するに開催の可否を国連に委ねよ、というのだ。

 

 妙な話だ。五輪の主催者はあくまでもIOCであり、東京都とJOCは開催都市契約を結んでいるパートナーに過ぎない。ある組織委の幹部は「世界中の選手に招待状を出すのはIOC。従って本来はIOCが決断すべき問題」と語っていたが、それが筋だろう。

 

 12年前を思い出す。2016年夏季五輪招致に立候補した東京は、2回目の決選投票で最下位となり、落選した。勝ったのは「南米初」を謳ったリオデジャネイロだった。東京が提案した「環境五輪」は、五輪の持続可能性という観点から見ても画期的かつ先駆的なものであり、太陽光パネルなどを使った環境対策は地球の温暖化を憂える団体などから一定の評価を得ていた。

 

 ところが、である。IOC評価委員の反応は「我々は国連ではない」と冷ややかだった、と後に石原慎太郎都知事(当時)が舞台裏を明かしている。<「彼らにはそんな問題意識はあまりなかった。ぼくが環境の話をしたら、『ここは国連じゃないんだ』という人がずいぶんいたよ。そのぐらいの問題意識だね、今は。ぼくは彼らに『こんなことをやっていたらオリンピックが出来なくなるぞ』と言ったんだけど、そうしたら『オリンピックやIOCを脅かすか』って言う。『そうじゃない、訴えているんだ』と言ってやったけど(笑)」>(朝日新聞2009年11月12日付け)

 

「我々は国連ではない」と言って「環境五輪」を一蹴した組織が、八方塞がりとなった今、国連にゲタを預けよというのは、随分ムシのいい話ではないか。

 

 またIOCは昨年3月、開催可否判断を「WHOの勧告に従う」と表明した。これも体のいい責任逃れのように映る。IOCに当事者能力はあるのか。そんな疑念を抱かざるを得ない。

 

<この原稿は21年1月20日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


◎バックナンバーはこちらから