あのモハメド・アリがその実力を認め、あのマイク・タイソンが憧れた男が、この国にいる。その男はファイティング原田である。“狂った風車”と呼ばれた彼が、息をもつかせぬ猛ラッシュで世界を驚愕させた試合の数々を3年前の原稿で振り返ろう。
<この原稿は『ビッグコミックオリジナル』(小学館)2018年8月5日号に掲載されたものです>
打ちも打ったり80数発。動画でそのシーンを確認したが、連打のスピードが速過ぎて正確には把握できなかった。
ファイティング原田が初めてボクシングの世界王座(フライ級)に挑戦したのは1962年10月10日のことである。東京オリンピック開幕のちょうど2年前だ。
場所は東京・蔵前国技館。攻勢で迎えた11ラウンド、原田は王者ポーン・キングピッチをコーナーに詰めると、雨あられとばかりに連打を叩き込んだのだ。一段目のロープにがっくりと腰を落としたタイ人は、うなだれたまま10カウントを聞いた。白井義男に次いで日本人としては2人目、19歳の世界王者が誕生した瞬間だった。
原田と言えばラッシュである。当時は“狂った風車”とも呼ばれた。ビデオを早回ししたような連打は、いったいどのようにして生まれたのか。少年の日のヒーローに訊いた。
「勝つためには、とにかく手を出さなきゃ。先にやらないとやられるぞという恐怖心は確かにあったね。ジムでの練習からして強い先輩や重い階級の選手とやらされた。あれで“なにくそ!”という根性がついたね」
だが、その3カ月後に敵地のタイで行なわれた防衛戦で、原田はあっさりと王座を明け渡す。原田にとっての最大の敵は、相手の拳ではなく、太りやすい体質だった。
「多い時は20キロくらい落としたかな」
20キロといえば、今の時代なら小学1年生ひとりあたりの体重に相当する。それを短期間で落とすのだ。その過酷さは想像するに余りある。
「減量も最後の方になるとツバは出ないし、汗もかかない。便所の水でも飲みたくなったよ。だけど、水道の蛇口は針金でくくられ、ひねれないようになっている。うがいすら許されないんだから……」
原田は現役時代を懐かしむように振り返り、噛み締めるように続けた。
「でもね。あの苦しみがあったから頑張れたんです。だって考えてもみてよ。コップ1杯の水を我慢することで、こっちは何千万円も手にすることができるんだよ。コップ1杯の水と引き換えに。
喉が渇いて一睡もできない日もあった。試合前の2、3日は一滴も水を飲まなかったからね。せいぜいレモンをしゃぶるくらい。眠れない日は、ただ目をつぶっている。考えているのは、終わったら何を食べるとか、そんなことばかりだよ。
だけど、人間、何かを成し遂げようとすれば、我慢するしかない。(現役時代に)楽しい思い出なんてひとつもない。苦しいことばかり。結婚だって自由にはできなかった。今のボクサーとは違うんだよ。誰にも負けたくないから、苦しいことにも耐えられたんだね」
クラスをバンタム級に上げた原田は1965年5月18日、愛知県体育館で“黄金のバンタム”の異名をとる伝説の王者に挑戦する。
エデル・ジョフレはデビュー以来50戦無敗。その洗練の極みのようなボクシングには寸分の弱点も見当たらなかった。
参考までに言えば、原田が初めてKO負けを喫した相手がメキシコのジョー・メデル。“ロープ際の魔術師”と呼ばれた男も、ジョフレの壁は厚く、2度ともKOで敗れている。
海外の記者から「ノーチャンス」と言われた原田だが、本人は「なぁに、同じ人間がやるんだ」と下馬評は気にもかけなかった。
果たして試合は1ラウンドから原田が主導権を握った。リズミカルなフットワークから繰り出される左ジャブでペースを握り、接近戦ではボティを狙い打った。
手の付けられないラッシュに定評のある原田だが、フットワークは軽く、身のこなしは巧みだ。一カ所にとどまらないよう動き続け、敵に的をしぼらせない。
4ラウンドには左アッパーからチャンスを掴み、その後の連打でジョフレを棒立ちにさせた。奇蹟が起きようとしていた。
だが、さすがに無敗の王者である。5ラウンド、左右のフックが挑戦者のアゴをとらえた。原田は戻るべきコーナーを間違えた。
中盤以降は一進一退の攻防が続く。手数では原田が上回ったが、カウンターの切れ味はジョフレの方が勝っていた。
死闘は、ついに最終15ラウンドに持ち込まれた。原田は最後の力を振りしぼってラッシュをかける。スピードでジョフレを圧倒し、ロープに詰めて連打を見舞う。この無尽蔵のスタミナは、いったいどこからくるものなのか。ジャッジは2対1で挑戦者を支持し、原田は日本人初の2階級制覇を達成したのである。
原田がリング狭しと暴れていた時代、世界のボクシング団体はひとつしかなかった。階級はわずか8つだった。要するにチャンピオンは世界に8人しかいなかったのである。
戦後、国際社会に復帰し、行動成長の真っ只中にあった日本にとって、原田は躍進と発展のシンボルだった。青春期のニッポンを、原田はリング上でのラッシュよろしく、脇目も振らずに駆け抜けた。
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