バルセロナ五輪・柔道の金メダリスト、古賀稔彦氏が24日朝、亡くなった。53歳だった。関係者によるとがんのため闘病中だった。古賀氏のハイライトと言えば、1992年のバルセロナ五輪だ。試合の10日前に左ヒザを傷め、一時は出場すら危ぶまれた。それだけ奇跡の金メダル獲得は、私たちの心にひときわ深い感動を残した。芸術的とすらいえる背負い投げを武器に、日本の、いや世界の柔道史に新たなる“伝説”を書き加えた天才柔道家に26年前、柔の極意を訊いた。

 

<この原稿は『月刊現代』(講談社)1992年12月号に掲載されたものです>

 

 ケガをして「優勝できる」と

 

――バルセロナに入って、練習中に傷めた左ヒザの状態は、実際にはどうだったのですか。

古賀稔彦: 亜脱臼の状態で、ヒザの周りの靭帯が伸び切ってしまい、歩くことすらできませんでした。加えてそこが炎症を起こしてしまい、その時点で、出場しても、まともな柔道はできないと覚悟しました。

 

――つまり金メダルは難しくなったな、と?

古賀: いえ逆です。ケガするまでは“優勝したい”という気持ちでしたが、ケガを境に“これで優勝できる”という確信に変わりました。ケガをして、いろんな雑念が吹っ切れたとでもいうんでしょうか。調子がいいと、考えなくてもいいことまであれこれ考えるでしょう。ところがケガをしたことによって、気持ちが勝負だけに集中できるようになった。また、今までの経験から、最悪の状態でも優勝できるだけの戦い方は身につけていたつもりでしたから。なぜか負ける気は全くしなかったですね。

 

――中でも圧巻は、準決勝のドット(ドイツ)戦でした。伝家の宝刀の一本背負いが決まった瞬間、あまりの鮮やかさに観客の全員が総立ちになり、万雷の拍手がおくられました。柔道の試合で、当事国でもない選手の勝利があれだけ祝福されたのはちょっと記憶にない。

古賀: でも、あの一本背負いにしたって、ただ技をかけられる瞬間があったからかけただけで、僕に言わせれば当たり前のことです。頭で考えるのではなく、体が自然にやったことですから。正直言って、それほど印象に残るものではありません。どんな試合でも5分間の中に必ず1回、ほんの一瞬ですが、技をかけることのできるチャンスがある。その瞬間に、気がついたら相手を投げているという感じですね。だから本当にきれいに技が決まった時というのは、手応えが全くないものなんです。

 

 自分を見失ったソウル五輪

 

――決勝ではハイトシュ(ハンガリー)に苦戦を余儀なくされました。判定を待つ間の気持ちは?

古賀: 前半はこちらが技を仕掛けましたが、途中の大外刈りで少しグラついたので、正直言って“負けたかな”と思いました。だから試合終了後のガッツポーズも相手より小さかった(笑)。自分の旗が上がった瞬間の気持ちといったら“地獄から天国へ”ですね。判定を待つ間のあれだけの緊張した時間は、もう2度と味わえないと思います。

 

――悲願の金メダルだったわけですが、4年前のソウル五輪では“金メダル確実”と言われながら、ソ連の伏兵・テナーゼに組ませてもらえず、まさかの3回戦負けを喫してしまいました。この4年間っで、柔道をする上での気持ちの変化はありましたか。

古賀: 今だから言えるんですが、ソウル五輪の時は、試合前の練習も言われるままにただこなしているだけという感じで、気持ちがフワフワしているような状態でした。自分自身を見失っていたんですね。それにプレッシャーを背負い過ぎて、マイナスの方からものを見ていたような気がする。例えば“日本のために勝たないといけない”といった具合に。これじゃいけない、とハッと我にかえったのは、ソウルが終わってからでした。

 それからというもの、練習でもあくまでも自分自身を中心に据えて行うようになりました。“日本のために――”から“自分のために――”に考え方を切り換えました。そうすれば、辛い合宿も苦にならない。時には練習後、酒を飲んだりして気分をリフレッシュすることも覚えました。これは日本の選手全員に言えることですが、ともすると練習のし過ぎで、試合前にオーバーワークになってしまうことがある。ソウル五輪の時、ただ1人金メダルを獲った斉藤仁さんは、ヒザが悪かったため、自分の体と相談して、休みをうまく入れながらマイペースで練習をしていました。斉藤さんだけは日本人選手の欠点に気づいていたんでしょう。

 

――それは、日本選手の練習は指導者からの押しつけが中心で、自主性に欠けるということですか?

古賀: そういうことです。自分のための試合なのに上からの押しつけが中心で、自分の意見を入れにくい。これでは本番で力を発揮することができません。もちろん、上からの意見を全て否定しろというわけではないですよ。外国のように両者が話し合いながら、納得した上で練習のメニューを決めていく。そうしたシステムが必要だと思うんです。ただ上からの指示に従うだけでは進歩はありません。

 

 兄に徹底的に仕込まれた

 

――技術的にソウル五輪後、大きく変わった点はありますか? というのも、ソウル五輪前まで、古賀さんはやや左組みの選手に弱い、と指摘する関係者もいました。事実、ソウル五輪では左組みのテナーゼが古賀さんの奥えりをとって背負いを封じてしまいました。世界中からもマークされると、さしもの天才も楽には勝てない(笑)。

古賀: ソウルで負けた原因は、自分自身、はっきり分かっていました。精神的には先ほど申し上げたこと。つまり、自分に妥協があってはダメだということです。ほんの少しでも気持ちに妥協が入ると勝てません。そして技術的には自信のある技のレパートリーが背負い投げと小内刈りの2つしかなかったということです。では、自分の最大の武器である背負い投げを最大限いかすためにはどうすればいいか。そういう観点から足技やつり込み腰を研究しました。相手は大技を警戒すればするほど、意表をつかれるとバランスを崩してしまう。これらの技は充分、相手にインパクトを与えることができたと思います。

 

――そうは言っても、古賀さんといえば背負いのイメージがあまりにも強過ぎる。両ヒザを畳につけない、俗にいう“立ち背負い”ですが、これは東京五輪中量級金メダリストの岡野功さんが兄・元博さんに伝授し、それを古賀さんが受け継いだものと言われています。その経緯を教えて下さい。

古賀: 僕は佐賀の出身ですが、兄は中学入学と同時に上京し、講道学舎に入門しました。その後、兄に続いて僕も上京しましたが、久しぶりに見る兄は大きな選手をボンボン投げつけて、まるだ今までの兄とは別人のように見えた。憧れていましたよ(笑)。すると兄が“オマエにも背負いを教えてやる”という。ヒザをついての背負いじゃ大きな選手を投げることができないということで、徹底して“立ち背負い”を仕込まれました。また“立ち背負い”の方が次への動作が早いという利点がある。

 

――背負いの型で、特に注意された点はありますか。

古賀: 九州にいる頃は、ヒザをついてガニマタで(背負いに)行ってたんですが、これは力が出ない型だということで、技に入るときは足の指は平行かやや内また、スタンスは肩幅と同じくらいにしろ、と教え込まれました。それから背負いに行く時には足を揃えて入る。引き手は柔道着のフクロの部分を持つ。組み手では絶対に妥協しない。兄の指導はそれはそれは厳しいものでしたよ(笑)。

 さらに兄から言われたのは“1回入ったら最後までかけろ”ということです。相手がいくら我慢しても入った以上は投げろ、試合になれば余計に相手は頑張るんだから、と。いわゆる相手を真下に落とすような投げ方は、その後、自分なりに研究を重ねました。それを完璧にマスターできたのは、始めに基本をみっちり教わったからです。基礎ができていなかったら、応用もできなかったでしょう。

 

 相手の体に“入る”

 

――講道学舎というと、どうしても猛練習のイメージが付きまとうんですが、実際に練習はかなり厳しかったんですか?

古賀: 練習は厳しかったですけど、時間はそう長くなかった。早朝トレーニングを1時間と、夕方、乱取りを1時間か1時間半くらい。密度が濃く、選手の力を100パーセント引き出すことを目的とするような練習でした。

 

――その結果、立ち背負いが完成したわけですが、私たちが一番感心するのは、相手の懐に飛び込む速さとタイミングの鮮やかさです。その奥義を言葉にすると、どうなりますか?

古賀: それは頭でなく体が覚えているものですから。タイミングにしても体が判断するんです。ただ柔道というものは、相手の体の内に“入る”か“出る”か、このどちらかでしょう。これが基本です。さらに言えば“入る”時は“投げる”時です。反対に“投げられる”と思ったら、戻らなくてはいけない。それも全て体が判断します。理屈じゃないんです。試合中に入るかどうか考えているようではダメです。練習や試合を積み重ねた結果、無意識にやるものです。

 

――“入る”時、技を返されるんじゃないかという恐怖はないですか?

古賀: ないです。“入る”時は“投げる”時ですから。投げられたどうしよう、と思って入ったりはしませんよ。

 

――唐突ですが、古賀さんの柔道はマイク・タイソンのボクシングに非常によく似ている。一言でいえば“虎穴に入らずんば、虎児を得ず”という論理です。全盛期のタイソンの最大の武器はステップ・インの速さと、瞬発力が最大値で刻まれる一瞬の攻撃力だった。タイソンも全盛期は相手の体の中に“入る”時に、恐怖を感じなかったかもしれない。

古賀: 実は僕もタイソンのボクシングには非常に興味を持っていました。彼のボクシングの最大のテーマは、いかに短い距離で自分の力を爆発させるか、ということだったわけでしょう。彼もヘビー級としては小柄だし、僕の柔道と相通ずるところがあった。ひそかに応援していただけに東京で敗れた時は残念でしたね。

 

――再び、背負い投げに話を戻しますが、確か1989年の世界選手権だったと思います。引き手を取らせてくれない相手への対策として、つり手だけの背負いを開発し披露しました。これはもう“秘技”といっていい(笑)。

古賀: この技はヒジのケガが原因で覚えたと思うんですが、いかに相手を自分の腰に乗っけるかがポイントですね。投げやすいヒジの位置というのがあって、わきは拳1個ほど開けといた方がいいですね。

 

(後編につづく)


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