川淵三郎氏に電話したのは、9日の午後6時過ぎだ。12日に予定されている合同懇談会前に、実質的な評議員会議長である氏の考えを聞きたかった。

 

 組織委会長は理事の互選で選ばれるが、評議員は会長の「選定及び解職」の権限を持つ。地味だが侮れない機関なのだ。

 

 単刀直入に切り出すと、川淵氏は「胃が痛いよ」と言った。こんな経験は人生で2度目だとも。1回目は元サッカー日本代表監督・二宮寛氏の解任。1978年12月のことだ。「あの時は若かったからね。技術委員長の平木隆三さんから“サブ、二宮を辞めさせろ”と言われ、身を引くように告げた。おかげで神経性胃炎になっちゃったよ」

 

 その話を聞き、評議員会が開かれた場合、川淵氏は森氏に引導を渡す腹を固めたのではないか、と感じた。いわば森氏が切腹した場合の介錯人である。「お家を頼む」と。

 

 女性蔑視発言により内堀も外堀も埋められた森氏は、巷間で言われる悪代官のような人物ではない。例の発言は不見識の極み、レッドカードものだが、全人格まで否定するような論調には賛成しかねる。

 

 辞意を固めた森氏が志半ばの事業を託す人物は川淵氏しかいなかった。元オリンピアンの川淵氏に選手村村長を依頼したのは森氏である。実現しなかったが、川淵氏を初代スポーツ庁長官に推したのも森氏である。

 

 タイプは正反対だ。森氏が老練な調整派なら、川淵氏は名にし負う剛腕だ。Jリーグ創設前夜、「時期尚早」「前例がない」という否定的な声に対し、「時期尚早という人間は百年たっても時期尚早という。前例がないという人間は200年たっても前例がないという」と語気鋭く一蹴した逸話は、今や伝説の色に染められている。

 

 五輪に対する川淵氏の思い入れは深い。一番印象に残っているのはアルゼンチン戦の勝利ではなく、開会式だという。「日の丸をあしらった白い帽子と真っ赤なブレザーが8000羽の鳩の糞で汚されやしないか、それが一番心配だったよ」

 

 57年前の思い出を、まるで青春期の宝物のように語る。「クーベルタンが一番の目的としてめざしたのは、若者同士が集うことでお互いに理解し合い、世界の平和につなげていこうということ。すべての競技のアスリートが集まって、一体感を持って行動するのはオリンピックの開会式だけです」。

 

 最悪の状況下での最善の選択。森氏から川淵氏への交代劇を一言で表すなら、そうなる。地に落ちた組織委の信頼は首の皮一枚つながった。そう信じたい。

 

<この原稿は21年2月12日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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