第4回 「広山望という生き方」(後編)
2004年3月の最後の土曜、僕はフランス人の友人であるマニュエルが運転するシトロエンのワゴンに乗っていた。行き先はモンペリエのBチームの試合会場。
道の左右には葉が全て落ちた木々が、青い空を突き刺すように生えていた。夏になれば、青々とした葉が茂っているのだろうが、この時期は寒々しい印象を与えた。
(写真:モンペリエのBチームでプレーする広山)
マニュエルは元々モンペリエでプレーしていた。「10番」をつけていたこともある。現在は地元の大学で、スポーツ選手のセカンドキャリアの手伝いなどをしている。マニュエルの友人が広山のことを知っており、モンペリエに来た時から、広山の生活全般を手助けしていた。
マニュエルはモンペリエ生まれではあるが、両親はスペインのバルセロナで生まれ育った。スペイン内戦の時期、混乱を嫌ってフランスに移り住んできたのだ。そのため、マニュエルは完璧にスペイン語を話すことができた。パラグアイでプレーしていた広山はスペイン語を話せる。そのため、マニュエルとのコミュニケーションには困らなかった。
僕もまたスペイン語を使って、マニュエルと意思疎通をしていた。
「実際のところ、(広山)望の問題は何なんだ。状態が悪いの?」
僕が訊くとマニュエルが答えた。
「一昨日の練習を見ただろう。調子はいい」
「昨日も一昨日も、彼と話したけれど、自分としては準備ができているとしか言わないんだ」
広山が03年10月4日のトゥールーズ戦から04年3月末までの間、試合に出たのは、たった2つだけだった。怪我もあったが、最近はベンチにさえ入っていなかった。
この日、モンペリエはナントで試合があり、トップチームは遠征に出かけていた。モンペリエにはBチームがあり、4部リーグに当たるCFAに所属している。トップチームに帯同しなかった広山はBチームの試合に出場することになっていた。
「望は間違いなく、クラブで最もいい選手の一人だ。それはお前も分かっているだろう。調子もいい。それでも試合には出られない。そうしたことが、ここではしばしば起こるんだ」
マニュエルはハンドルを握りながら、首を横に振った。
モンペリエの裏事情
20台ほどしか収容できない駐車場はほとんど埋まっていた。車を降りると、乾いた冷たい空気で、思わず身震いした。
芝のグラウンドに、数百人ほど入れば一杯になるであろう、小規模なスタンドが隣接していた。広山は分厚い練習着を来て、ボールを蹴っていた。僕たちの姿を認めると、手を挙げた。
モンペリエの相手は、黄色と赤色の縦縞のユニフォームのクラブだった。モンペリエのユニフォームはトップチームと同じ、オレンジのパンツと紺色のシャツだったが、Bチームのため、背中に選手の名前が入っておらず、間抜けたデザインに見えた。
(写真:右サイドからクロスを上げる広山) 前半は特に見所はなかった。後半途中になって、背番号13をつけた広山がピッチに入った。右サイドを駆け上がり、相手をかわし、中央にクロスボールを上げた。しかし、フォワードの選手が合わせそこね、シュートは枠から大きく外れた。
怪我の影響はなく、調子は良さそうだった。ボール扱い一つを見ても、このレベルでプレーする選手ではないことは明らかだった。
試合はそのまま終了。モンペリエが勝利したが、印象に強く残らない試合だった。
「ちょっといいかい」
隣に座っていた男が僕に声を掛けた。ベレー帽を被った初老の男だった。
「君は日本から来たの? 広山の家族か何かかい?」
「いや。僕はジャーナリストだ。以前、広山の本を書いたんだ。今回は様子を見に来たのだけれど……」
「君に言いたいことがあるんだ。フランス語は大丈夫?」
「ちょっとだけしか話せない。だから、彼に話してくれ」
僕はマニュエルを指さした。男はマニュエルに早口で何事かまくし立てた。
話がとぎれたところで、マニュエルが僕の方を向いてスペイン語に通訳してくれた。
「彼はずっとモンペリエを見続けているんだけれど、このクラブはいつも外国人を使いこなせないと言っている。コロンビアのカルロス・バルデラマ、あるいはカメルーンのロジェ・ミラも期待されていたほどの活躍はできなかった。原因はわからないが、いつもそうなんだ。だから今回も望に問題があるわけじゃない」
(写真:広山はピッチ上で存在感を見せていた) マニュエルは続けた。
「今週の練習を見に行ったら、望は何故かボランチで使われていた。フランス人の中に入ると望は小さく華奢な部類に入る。そんな選手をボランチで使うなんてどういうことだろう。望はテクニックとスピードのある選手だ。どうして彼の個性が生きるポジションで使わない? 監督というのは試合に出る最良の選手を選ぶものだ。しかし、ここでは違う。フロントがまず“売却”したい選手がいて、その選手を使っている。今のモンペリエのトップチームには競争がない。おかしいのは、トップチームだけじゃない、この試合だって不可解な選手起用だと思わないか。望もルイ・パタカ(ポルトガル人FW)もベンチだ。彼らはずっとトップチームでレギュラーだった。そんな選手をどうして使わない?」
「理解できたか」とマニュエルはフランス語で付け加えた。
僕が頷くと男はにっこりと笑った。
広山は今回のBチームの試合では中盤の右サイドに入っていたが、トップチームでは本来のポジションを与えられていなかったのだ。
“売却”の話については僕の耳にも入っていた。
モンペリエのトップチームにはアビブ・バモゴという五輪代表に入っている黒人の選手がいた。突破力のあるフォワードで、オリンピック・マルセイユが狙っていた。今シーズンが終わった後に移籍がまとまるという報道が出ていた。バモゴを高く売るために、彼と相性のいい選手を起用しているとも言われていた。実際にこのシーズンが終わった後、バモゴはマルセイユに移籍した。
広山望という生き方
「もう少し試合に出られれば、得点につながったんじゃないかな」
駐車場に出てきた広山に声をかけると頷いた。
「そうですね。もう少し出たかったですけれど、決めるのは監督ですから」
自分の力を発揮できなくて、一番頭に来ているのは広山本人だろう。しかし、彼はその怒りを全て飲み込んでいた。僕はそれ以上試合について触れるのをやめた。
「今夜はマニュエルの家に行くんだよね」
「ええ。後で電話します」
今日はマニュエルの家で、一緒にモンペリエのトップチームの試合をテレビで見ることになっていた。広山は自分が出ていなくても、モンペリエのことを応援するだろう。
(写真:2002年、ブラジルのスポルチ・レシフェにて) パラグアイ、ブラジル、ポルトガル、そしてフランスと彼を追いかけてきた。彼とは取材という形で、あるいは一緒に食事をしたり、お茶を飲んだりする中で、話を聞いてきた。
ブラジルのスポルチ・レシフェでは労働ビザが取得できず、選手登録をすることさえできなかった。ポルトガルのブラガでは怪我に悩まされた。
ブラガではスペイン人の選手と一緒に出かけたことがあった。彼らは「ポルトガル人の付き合い方はスペイン人とは違う」とポルトガル人が閉鎖的であることをやんわりと批判した。広山も嫌な思いをしたことがあっただろうが、そうした類のことを一言もこぼしたことはなかった。
広山という男はそういう男なのだ。
もはや日本人が国外でプレーすることは珍しいことではない。広山は日本代表で圧倒的な実績を残した選手でもない。それでも、多くの人が彼のことを気になるのは、他の選手とは少し違った雰囲気をまとっているからだろう。少なくとも、僕はそうだ。
初めてペルーで会った時、「サッカーが文化として根付いている国に行ってみたかった」と広山は言った。日本に居続けたほうが、金銭的には恵まれていたはずだ。しかし、彼は人生をやり直せるとしても、同じ道を選ぶだろう。
サッカー選手とはいうのは浮き沈みがある。僕たちの人生と同じだ。そして金銭を得ることだけが成功ではない。自分の心に従ってよりよい人生を送ること、広山はそれを実践している。これでいいのだ。僕は心がふっと軽くなる気がした。
「さあ、行こう」
僕はマニュエルの肩を叩いた。太陽が沈みつつあった。薄茶色の家に夕陽が当たっていた。街路樹の木々から長い影が伸びていた。南フランス特有の美しい夕暮れだった。今晩はマニュエルの家で旨いワインが飲めそうだと思った。
(終わり)
■田崎健太(たざき・けんた)
ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入る。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。08年3月11日に待望の新刊本『楽天が巨人に勝つ日―スポーツビジネス下克上―』(学研新書)が発売された。
道の左右には葉が全て落ちた木々が、青い空を突き刺すように生えていた。夏になれば、青々とした葉が茂っているのだろうが、この時期は寒々しい印象を与えた。
(写真:モンペリエのBチームでプレーする広山)
マニュエルは元々モンペリエでプレーしていた。「10番」をつけていたこともある。現在は地元の大学で、スポーツ選手のセカンドキャリアの手伝いなどをしている。マニュエルの友人が広山のことを知っており、モンペリエに来た時から、広山の生活全般を手助けしていた。
マニュエルはモンペリエ生まれではあるが、両親はスペインのバルセロナで生まれ育った。スペイン内戦の時期、混乱を嫌ってフランスに移り住んできたのだ。そのため、マニュエルは完璧にスペイン語を話すことができた。パラグアイでプレーしていた広山はスペイン語を話せる。そのため、マニュエルとのコミュニケーションには困らなかった。
僕もまたスペイン語を使って、マニュエルと意思疎通をしていた。
「実際のところ、(広山)望の問題は何なんだ。状態が悪いの?」
僕が訊くとマニュエルが答えた。
「一昨日の練習を見ただろう。調子はいい」
「昨日も一昨日も、彼と話したけれど、自分としては準備ができているとしか言わないんだ」
広山が03年10月4日のトゥールーズ戦から04年3月末までの間、試合に出たのは、たった2つだけだった。怪我もあったが、最近はベンチにさえ入っていなかった。
この日、モンペリエはナントで試合があり、トップチームは遠征に出かけていた。モンペリエにはBチームがあり、4部リーグに当たるCFAに所属している。トップチームに帯同しなかった広山はBチームの試合に出場することになっていた。
「望は間違いなく、クラブで最もいい選手の一人だ。それはお前も分かっているだろう。調子もいい。それでも試合には出られない。そうしたことが、ここではしばしば起こるんだ」
マニュエルはハンドルを握りながら、首を横に振った。
モンペリエの裏事情
20台ほどしか収容できない駐車場はほとんど埋まっていた。車を降りると、乾いた冷たい空気で、思わず身震いした。
芝のグラウンドに、数百人ほど入れば一杯になるであろう、小規模なスタンドが隣接していた。広山は分厚い練習着を来て、ボールを蹴っていた。僕たちの姿を認めると、手を挙げた。
モンペリエの相手は、黄色と赤色の縦縞のユニフォームのクラブだった。モンペリエのユニフォームはトップチームと同じ、オレンジのパンツと紺色のシャツだったが、Bチームのため、背中に選手の名前が入っておらず、間抜けたデザインに見えた。
(写真:右サイドからクロスを上げる広山) 前半は特に見所はなかった。後半途中になって、背番号13をつけた広山がピッチに入った。右サイドを駆け上がり、相手をかわし、中央にクロスボールを上げた。しかし、フォワードの選手が合わせそこね、シュートは枠から大きく外れた。
怪我の影響はなく、調子は良さそうだった。ボール扱い一つを見ても、このレベルでプレーする選手ではないことは明らかだった。
試合はそのまま終了。モンペリエが勝利したが、印象に強く残らない試合だった。
「ちょっといいかい」
隣に座っていた男が僕に声を掛けた。ベレー帽を被った初老の男だった。
「君は日本から来たの? 広山の家族か何かかい?」
「いや。僕はジャーナリストだ。以前、広山の本を書いたんだ。今回は様子を見に来たのだけれど……」
「君に言いたいことがあるんだ。フランス語は大丈夫?」
「ちょっとだけしか話せない。だから、彼に話してくれ」
僕はマニュエルを指さした。男はマニュエルに早口で何事かまくし立てた。
話がとぎれたところで、マニュエルが僕の方を向いてスペイン語に通訳してくれた。
「彼はずっとモンペリエを見続けているんだけれど、このクラブはいつも外国人を使いこなせないと言っている。コロンビアのカルロス・バルデラマ、あるいはカメルーンのロジェ・ミラも期待されていたほどの活躍はできなかった。原因はわからないが、いつもそうなんだ。だから今回も望に問題があるわけじゃない」
(写真:広山はピッチ上で存在感を見せていた) マニュエルは続けた。
「今週の練習を見に行ったら、望は何故かボランチで使われていた。フランス人の中に入ると望は小さく華奢な部類に入る。そんな選手をボランチで使うなんてどういうことだろう。望はテクニックとスピードのある選手だ。どうして彼の個性が生きるポジションで使わない? 監督というのは試合に出る最良の選手を選ぶものだ。しかし、ここでは違う。フロントがまず“売却”したい選手がいて、その選手を使っている。今のモンペリエのトップチームには競争がない。おかしいのは、トップチームだけじゃない、この試合だって不可解な選手起用だと思わないか。望もルイ・パタカ(ポルトガル人FW)もベンチだ。彼らはずっとトップチームでレギュラーだった。そんな選手をどうして使わない?」
「理解できたか」とマニュエルはフランス語で付け加えた。
僕が頷くと男はにっこりと笑った。
広山は今回のBチームの試合では中盤の右サイドに入っていたが、トップチームでは本来のポジションを与えられていなかったのだ。
“売却”の話については僕の耳にも入っていた。
モンペリエのトップチームにはアビブ・バモゴという五輪代表に入っている黒人の選手がいた。突破力のあるフォワードで、オリンピック・マルセイユが狙っていた。今シーズンが終わった後に移籍がまとまるという報道が出ていた。バモゴを高く売るために、彼と相性のいい選手を起用しているとも言われていた。実際にこのシーズンが終わった後、バモゴはマルセイユに移籍した。
広山望という生き方
「もう少し試合に出られれば、得点につながったんじゃないかな」
駐車場に出てきた広山に声をかけると頷いた。
「そうですね。もう少し出たかったですけれど、決めるのは監督ですから」
自分の力を発揮できなくて、一番頭に来ているのは広山本人だろう。しかし、彼はその怒りを全て飲み込んでいた。僕はそれ以上試合について触れるのをやめた。
「今夜はマニュエルの家に行くんだよね」
「ええ。後で電話します」
今日はマニュエルの家で、一緒にモンペリエのトップチームの試合をテレビで見ることになっていた。広山は自分が出ていなくても、モンペリエのことを応援するだろう。
(写真:2002年、ブラジルのスポルチ・レシフェにて) パラグアイ、ブラジル、ポルトガル、そしてフランスと彼を追いかけてきた。彼とは取材という形で、あるいは一緒に食事をしたり、お茶を飲んだりする中で、話を聞いてきた。
ブラジルのスポルチ・レシフェでは労働ビザが取得できず、選手登録をすることさえできなかった。ポルトガルのブラガでは怪我に悩まされた。
ブラガではスペイン人の選手と一緒に出かけたことがあった。彼らは「ポルトガル人の付き合い方はスペイン人とは違う」とポルトガル人が閉鎖的であることをやんわりと批判した。広山も嫌な思いをしたことがあっただろうが、そうした類のことを一言もこぼしたことはなかった。
広山という男はそういう男なのだ。
もはや日本人が国外でプレーすることは珍しいことではない。広山は日本代表で圧倒的な実績を残した選手でもない。それでも、多くの人が彼のことを気になるのは、他の選手とは少し違った雰囲気をまとっているからだろう。少なくとも、僕はそうだ。
初めてペルーで会った時、「サッカーが文化として根付いている国に行ってみたかった」と広山は言った。日本に居続けたほうが、金銭的には恵まれていたはずだ。しかし、彼は人生をやり直せるとしても、同じ道を選ぶだろう。
サッカー選手とはいうのは浮き沈みがある。僕たちの人生と同じだ。そして金銭を得ることだけが成功ではない。自分の心に従ってよりよい人生を送ること、広山はそれを実践している。これでいいのだ。僕は心がふっと軽くなる気がした。
「さあ、行こう」
僕はマニュエルの肩を叩いた。太陽が沈みつつあった。薄茶色の家に夕陽が当たっていた。街路樹の木々から長い影が伸びていた。南フランス特有の美しい夕暮れだった。今晩はマニュエルの家で旨いワインが飲めそうだと思った。
(終わり)
■田崎健太(たざき・けんた)
ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入る。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。08年3月11日に待望の新刊本『楽天が巨人に勝つ日―スポーツビジネス下克上―』(学研新書)が発売された。