目を開けると窓の外に緑色の木々が生えているのが見えた。ずいぶん長い時間、眠ってしまっていたようだった。今朝はこのバスに乗るために朝6時半に起きていた。太陽の光が心地よく、眠ってしまっていたのだ。
(写真:ラ・コルーニャの海岸にて)


 時々、緑の中に白い壁に灰色の屋根をした家が見えた。眠るまでは、屋根の色はどれもくすんだ橙色だったことを思い出した。アストゥリアス州を抜けて、ガリシア州に入っているようだった。

 日本を出てから2ヶ月になろうとしていた。
 ほぼ半年前、1999年の年末で勤めていた出版社を辞めた。出版社に勤務している間、1年間の休暇をとって、サンパウロを拠点に南米大陸の全ての国をバスと船で回っていた。その旅でつけた日記をまとめた原稿を出版社に持ち込むと「面白い。出版を検討したい」と言われた。

 旅行記を書いているうちに、僕は南米大陸の文化の基となっているスペイン、ポルトガルに行ってみたいと思うようになった。実はこの二つの国には一度も行ったことがなかった。原稿の目処がつくと、僕はポルトガルの首都リスボンに向かうことにした。

 リスボンから南に向かい、エボラ、ファーロ、国境を越えてスペインのセビージャに入った。セビージャからカディスに行ったが、聖週間に入ったため、宿の確保が難しくなり、フェリーでモロッコのタンジールに渡った。そこから飛行機でマドリッドに戻り、グラナダ、アルメリア、バレンシア、バルセロナと時計回りとは逆の方向でスペインの国内を旅していた。

 そして最後にスペインの北西のガリシア州に入った。ガリシア州から再びポルトガル国境を越え、リスボンから日本に戻るつもりだった。

(写真:ラ・コルーニャの市庁舎) 遠くに高層ビルが建ち並んでいるのが見えた。バスは速度を落とし、街中に入っていった。スペインが栄えていた16世紀に作られたであろう建物のベランダには、白と青の縦縞の旗が飾られていた。ラ・コルーニャの街に着いたようだった。

 僕はいつもバスターミナルに着くと、まずは中心地に向かい、安宿を探して泊まっていた。しかし、このラ・コルーニャには行く宛があった。

 知人がこの街で、サッカー留学生のエージェントをやっていた。留学生たちは私立学校の寮に寝泊まりしており、ラ・コルーニャに行く時はそこに泊まればいいと言われていたのだ。

 バスターミナルからタクシーで学校に到着すると、中で子供たちが大きな声を上げて遊んでいるのが見えた。中には青と白の縦縞のユニフォームを着ている子供が何人かいた。 先程の青と白の旗は、この街のサッカークラブ、デポルティーボ・ラコルーニャのチームカラーであることを思い出した。

「日本人留学生の関係者かい?」
 門の前にいた初老の男が僕を見つけると声を掛けてきた。
「ええ。この中の寮に泊まることになっているんですけれど」
 男は鍵を取り出すと、門を開けてくれた。

「ところで、今日の試合は行くのかね」
「そのつもりですが」
 僕の答えに男は深く頷いた。
「今日の試合は歴史的なものだよ。この街にいて、行かないのはもったいないからね」
 この日の夕方、デポルティーボ・ラコルーニャはエスパニョールと対戦することになっていた。そして――この試合に勝てば、デポルティーボの優勝が決まった。

デポルが力をつけた理由

 ここ10年以上、スペインリーグは、資金力豊富なレアル・マドリッドとバルセロナの2つのクラブが覇権を争っていた。アトレチコ・マドリッドが絡むこともあったが、ガリシアの地方都市デポルティーボが優勝することになれば快挙だった。

 以前から、デポルティーボについては不思議なクラブであると興味を持っていた。
 クラブの設立は100年以上前に遡る。その歴史のほとんどは、スペインリーグで1部と2部を行ったり来たりする、いわゆる“エレベーター”と呼ばれる弱小クラブだった。
 デポルが世界中に名前を知られるようになったのは、1990年代に入ってから、全てはレンドイロが、1988年にデポルの会長に就任してからのことだ。

(写真:ラ・コルーニャの市電) 自らのことを「会長になるべく生まれてきた」と語るアウグスト・セサル・レンドイロは、1945年にコルクビオンというラ・コルーニャ郊外の小さな漁村で生まれた。ウラルという小さなサッカークラブの会長を27年間務めた後、リセオ・ホッケークラブを設立、会長として欧州一に導いた後、デポルティーボの会長になった。

 デポルは1991-1992年のシーズンに1部に昇格した。翌1992年に2人のブラジル人、ベベットとマウロ・シルバと契約。この年、ベベットは得点王となり、チームは3位という好成績を残した。

 デポルティーボのクラブ経営は謎に包まれている。
 まず、デポルティーボは正確なソシオの数を公開していない。スペインリーグでは、プロフェッショナル・リーグと呼ばれる機関に、ソシオの数などの経営の報告書を出すことを義務付けられている。ところが、レンドイロは報告書提出を怠り、毎年罰金を支払っていた。レンドイロは、罰金を敢えて支払い、経営状態を隠遁していると言われていた。

 ラ・コルーニャは人口25万人の地方の小さな街だ。本拠地のリアソル・スタジアムの収容人数は2万人。入場料収入は微々たるものであると想像できる。

 ガリシア州は決して裕福ではなく、チームを支えてくれるような強力な地場産業もない。バルセロナのように地元意識の強いカタルーニャ地方のように自治州政府や地元金融機関からの優遇措置を受けているわけではない。

 デポルティーボが力をつけてきた理由は、選手補強の巧さにある。
 リバウドは、96-97シーズンにプレーした翌年、バルセロナに売却した。デポルが前所属のパルメイラスに支払った移籍金は500万ドル。デポルがバルセロナから得た移籍金は、2500万ドル。

(写真:デポルカラーの帽子をかぶった少年) また一度もクラブでプレーしていない選手で移籍金を手に入れたこともある。
 97年、フランスリーグ1部のランスにいたシルバン・ビルトールにレンドイロは目をつけ、シーズン中に契約を結んだ。その後、同じフランスリーグのボルドーがビルトールを気に入り、ビルトールもまたフランスに残ることを希望した。デポルは、一度締結した契約を諦める代わりに、“ボルドーから次のクラブに移籍する時の移籍金の30パーセントはデポルに支払う”という契約を結んだ。ビルトールが00年にアーセナルに移籍すると、デポルは彼に一銭の投資をすることなく、約400万ドルもの大金を手に入れたという。

 そんなクラブがスペインリーグ優勝に王手を掛けていたのだ。見に行かないわけにはいかない。

 ただ、問題があった。
 取材申請を出していたのだが、返事がない。折角、ラ・コルーニャまで来たのに、スタジアムの中に入ることができなければ何の意味もない。試合時間は迫っている。僕は焦っていた――。

(後編に続く)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入る。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。08年3月11日に待望の新刊本『楽天が巨人に勝つ日―スポーツビジネス下克上―』(学研新書)が発売された。


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