松山家が海の見える松山市内の家に引っ越してきたのは、英樹が中学1年の時である。目の前は瀬戸内海、夕陽の向こうにはポッカリと興居島(ごごしま)が浮かんでいる。巨人などで活躍した西本聖が生まれ育った小さな島だ。近くには梅津寺(ばいしんじ)という愛媛県内有数の海水浴場もあり、絵葉書のような風景が広がる。

 

「うまいなァ、この子。いつ引っ越してきたんやろう」。ANA総研元社長の岡田晃は帰省するたびに、砂浜を見ながら舌を巻いた。岡田家の隣に引っ越してきたのが松山家だった。岡田は続ける。「海は遠浅になっていて、私たちの家の前は砂浜。いってみればバンカーみたいなもの。そこで半径5メートルくらいの円を描いて50ヤードくらいのアプローチの練習をする少年がいた。それが英樹君ですよ。どのショットも、ほとんどミスなく半径5メートルの円の中にピタッピタッとおさめる。もう見惚れましたね。今もその光景は鮮明に覚えています」

 

 ある時、岡田が英樹に「あの練習は今でも覚えているよ」と水を向けると、「僕は練習は嫌いです」とピシャリと返されたという。振り返って岡田は言う。「確かに英樹君の言う通り。彼にとっては練習ではなく、あれは当たり前の日常だったんでしょう」

 

 それについて、父・幹男は以前こう語っていた。「目の前がバンカー? 砂浜自体がプライベートビーチみたいなもんですから。中学生の頃、英樹は砂浜に杭を立て、サンドウエッジでカンカンぶつけていた。だからバンカーショットが得意なんです」。幹男とは、たまたま主治医が同じで、勝ったら鯛汁を振る舞ってもらう約束をしていた。幹男は主治医にこう語っていた。「鯛汁は松山家にとって勝負飯、いや必勝汁。英樹が初めて出場した2011年のマスターズで仲間たちに鯛汁を振る舞ったところ、決勝に残った。今回は縁起を担いで最終日の前に振る舞いましたよ」

 

 タイガー・ウッズがマスターズを初めて制したのが1997年。英樹は5歳。「いつか、一緒にあの場所に行こうな」と誓い合った。「こう見えても、高1までは英樹に負けんかったんですよ。負けたら文句言えんなると思いまして(笑)」。「今回、勝てると思った瞬間は?」主治医が聞くと「3日目の10番やね。あそこでパーを拾い、これはもう英樹のもんやと。案の定、そこから突っ走りましたよ。英樹は年末に帰ってきた時も砂浜でタイヤを引きながら体づくりをやっていた。今年に期するものがあったんでしょう」。せせらぐような伊予灘の潮騒がヒーローの凱旋を待っている。

 

<この原稿は21年4月14日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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