「帰国したら自分は殺されるかもしれない」。サッカーミャンマー代表のGKピエ・リアン・アウンが母国への帰国を拒否して難民認定を申請したのは先週のことだ。「WE NEED JUSTICE」。命の危険をも顧みず3本の指を突き立てた。きっと誰もが案じたに違いない。家族に累が及ばなければいいが、と…。

 

 サッカーを通じての日本とミャンマーの結び付きは深い。日本サッカー殿堂入りを果たしているミャンマー人もいる。チョー・ディン。デットマール・クラマーに勝るとも劣らない功労者だ。

 

 英国統治下のビルマ(旧国名)において、サッカーは最も盛んなスポーツだった。幼少の頃からサッカーに親しみ、大正時代、国費留学生として来日。縁あって早稲田高等学院のコーチとなる。

 

 1923年に始まった第1回旧制高等学校ア式蹴球大会。71年に出版された『図説 サッカー事典』(講談社)によると、優勝候補の本命は旧制第八高等学校。その八高を破ったのが竹腰重丸(後の日本代表監督)擁する山口高校。決勝の相手は早稲田高等学院。結果はどうだったか。<山口は一番歴史が若く私立である早稲田高等学院に敗れ2位となった。それ迄は無名だった私立の早稲田の優勝の陰にはビルマ人留学生チョー・ディンの指導があったことがわかると山口高校からも、高山忠雄が出た神戸一中からもチョー・ディンにコーチを依頼した>(同書)

 

「歴史が若く」「私立」「無名」といった書きぶりに、当時の学生スポーツのヒエラルキーが見え隠れする。では新興勢力の早稲田高等学院は、どのような戦法を用いたのか。答えはショートパスだ。実はビルマにいる頃、ディンはロングボール主体のイングランドを倒すため、ショートパスを駆使する戦法に磨きをかけていたスコットランドの指導者から直々に教えを受けていたのである。

 

 この年の9月、関東は大地震に見舞われる。10万人を超える死者・行方不明者を出した関東大震災。学んでいた蔵前の東京高等工業学校(後の東京工業大学)の校舎が全壊したことからディンは全国の学校を指導で回り始める。それはパスサッカーの伝道師としての巡礼の旅だった。

 

 それから100年。日本サッカーはディンの貢献もあり、飛躍的な発展をとげた。その恩返しというわけでもないが、難民認定を申請したアウンに、日本国内でサッカーを続けさせてはやれないものか。息苦しい日々を思うと胸が詰まる。

 

<この原稿は21年6月30日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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