野球がオリンピックの実施競技に採用されたのは1992年のバルセロナ大会からだが、日本はまだ一度も金メダルを獲っていない。92年バルセロナ=銅、96年アトランタ=銀、00年シドニー=メダルなし、04年アテネ=銅、08年北京=メダルなし。

 

 しかし、公開競技の時代にまで遡ると、84年ロサンゼルス大会で頂点に立っている。当時、世界最強の呼び声高かったキューバが出場をボイコットしたとはいえ、決勝で地元の米国を破っての金メダルはもっと評価されていい。

 

 関係者の中には「あの時は公開競技だったから」と言う者もいるが、公開競技だからと言って手を抜く者はいない。6対3で勝った米国にはマーク・マグワイア、ウィル・クラークら、後にメジャーリーグで活躍する選手たちも何人かいた。

 

 この時の日本代表は、もちろん大学生と社会人で編成するオール・アマチュアである。投手では伊東昭光、伊藤敦規、宮本和知、西川佳明、米村明。捕手では嶋田宗彦、吉田康夫、秦真司。野手では正田耕三、和田豊、広沢克己、森田芳彦、上田和明、荒井幸雄、古川慎一、熊野輝光が後にプロ入りした。

 

 監督は法大で黄金時代を築き、住友金属では日本選手権優勝に2度チームを導いた松永怜一である。

 

 なぜ五輪アジア予選のアジア選手権で台湾に敗れ(キューバのボイコットにより出場)、五輪の予選リーグではカナダに競り負けた弱小チームが、試合を重ねるたびに強くなり、金メダルを胸に飾ることができたのか。松永に何度か話を聞いているうちに解を得ることができた。

 

 私なりの解釈では、松永は金メダルを「目標」にはしていたが「目的」とはしていなかった。そこが大きかったのではないか。松永の言葉を借りれば、鎖国状態のプロ野球に苛立っていた。「五輪での野球競技の実施はドジャースのピーター・オマリー会長が“野球を世界に普及させたい”とIOCに進言して実現したもの。参加する以上、私たちはともにその責任を負い、義務を果たさなければならない。その結果としてメダルがある」

 

 あれから37年、松永の法大の後輩にあたる稲葉篤紀率いる侍ジャパンの目標は、もちろん野球が実施競技になって以降、初の金メダルである。では日本が金メダルを獲ることで日本の、そして世界の野球地図はどう変わるのか。金メダルのその先の、夢のある風景に想いを馳せたい。

 

<この原稿は21年7月7日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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