8月7日にオリンピックの野球は決勝戦を迎える。侍ジャパン(野球日本代表)は悲願の金メダルをかけ、アメリカと対戦する。17年、稲葉ジャパン誕生以前から侍ジャパンの強化本部長を務めてきた山中正竹氏の証言で、野球日本代表の強みと五輪野球の怖さに迫る--。インタビュアーはスポーツコミュニケーションズ編集長の二宮清純。(このインタビューは講談社・本2017年12月号に掲載されたものです。)

 

――山中さんご自身の球歴についてお訊ねします。高校は大分の佐伯鶴城高校ですね。後輩に広島の監督を務めた野村謙二郎がいます。
山中 広島の監督と言えば86年にリーグ優勝を果たした阿南準郎さん。あの方は私の先輩にあたります。


――阿南さんもそうですか。OBは錚々たる顔ぶれですね。で、甲子園は?
山中 2年の夏に中九州大会の決勝で八代東(熊本)に負けました。8回まで勝っていて、あと2イニングというところで皆ガチガチになっちゃった。金縛りにあって体が動かない。連続エラーの後、3番バッターに左中間ツーベースを打たれ、3対4と逆転された。その時の相手のピッチャーが後に阪神で外野手として活躍する池田純一さんです。


――3年生の時はどうでしたか?
山中 春の九州大会は沖縄で開催されました。まだ沖縄はアメリカの統治下ですからパスポートを渡されたことを覚えています。決勝は安田猛さんのいる小倉に勝って優勝しました。スコアは1対2でした。春の九州大会で優勝したものだから、夏の甲子園は出場間違いなし、と言われたんです。ところが県予選の2回戦で高田高校に敗れました。


――卒業後は六大学野球の法政大に進みます。
山中 実は私は早稲田大学に入る予定だったんです。野球部長が熱心に働きかけてくれました。練習に参加するため、8月の末に上京しました。地元の代議士に村上勇さんという方がいて、挨拶に行ったら、「おぉ、キミが山中君か。小さいな」と。続けて「明治大の島岡吉郎君がキミを欲しがっているから、キミは明治に行きなさい!」と。


――今度は明治ですか(笑)。
山中 そんなことがあったものだから2日間ばかり明治の練習に出て、そして早稲田に行ったんです。


――いわゆるセレクションですね。
山中 そうです。参加して2日目かな。当時、サンケイにいた豊田泰光さんがきて、「大分の山中はいないか!?」と探しているんです。「はい」と手を上げたら、「おぉ、オマエか。オレがオマエの推薦人だから頑張れ!」と。

 

――なぜ豊田さんが山中さんの推薦人なんでしょう?
山中 当時の早稲田の監督・石井藤吉郎さんは豊田さんの水戸商の先輩です。それに豊田さんは西鉄に長く在籍していて九州とは縁が深かった。そういうつながりがあったんじゃないでしょうか。

 

――セレクションはいかがでしたか?
山中 まわりは皆、テレビで見たことのある人ばかり。静岡高の小田義人とか高知商の浜村孝とか。中京商、平安、浪商…。ユニホームを見るだけで、“うわー、スゴイ”と九州の田舎者は震え上がりますよ。それで大分に帰った後、部長に「どうだ?」と聞かれたものだから、こっちは正直に「あんなスゴイ人たちと一緒に野球はやれません」と答えました。すると、部長が法政の監督をしていた松永怜一さんに手紙を書いてくれた。すぐに返事がきて「暮れに行う淡路島のキャンプにきてくれ」と。早稲田同様、100人くらい選手がいましたよ。

 

――早稲田に明治に法政、その中から法政を選んだ理由は?
山中 練習の最後の日に6、7人の高校生が大広間に集められました。松永さんの他、野球部長の藤田信男さんもいました。開口一番、松永さんは言いました。「キミたちの中で、他の学校を併願しているやつはいないだろうな?」と。私は正直に話さないといけない思い、「早稲田の練習に行ってきました」と告げました。即刻、松永さんに言われましたよ。「早稲田はやめて、ウチに来なさい!」と。選手たちのいる広間に戻ったら、まわりが拍手するんです。「オマエらは幹部候補生だ」と。附属である法政一高や二高の選手もいたので、入学の仕組みがわかっていたんでしょうね。

 

――山中さんほどのピッチャーだったら早稲田も諦め切れなかったでしょうね。
山中 年が明けたら、すぐに連絡がきました。「まだ願書が届いていない。どうしてだ?」と。「とりあえず試験だけは受けてくれ」と頼まれたんですけど、「もう法政に決めました」と言って断ったんです。

 

――山中さんが早稲田に入っていたら、六大学野球の歴史は変わっていたでしょうね。
山中 いやいや、途中で野球を辞めていたかもしれないし、もちろん48勝はなかったでしょうね。

 

――結局、山中さんは法大で何回、優勝したんですか?
山中 67年秋、68年春、69年秋の3回です。皆さんが考えているほど、僕らは強いチームじゃなかった。圧倒的に強かったら2勝0敗になります。1勝1敗で3戦目を迎えたから48勝もできたんですよ。

 

――ひとつ先輩には田淵幸一、山本浩二、富田勝の、いわゆる“三羽ガラス”がいました。
山中 確かに田淵さんも浩二さんもよく打ったけど、六大学での通算打率は2割台でしょう?(田淵2割7分5厘、山本2割9分3厘)。東大以外は実力が拮抗していました。それが証拠に私のいた4年間、東大以外は全て優勝していますから。

 

――多くの関係者から「山中さんは勝ち方を知っていた」という話を聞きました。
山中 僕は身長が168センチしかない。小さな体が生き残るには頭を使うしかなかった。ある時、考えたんです。バッターは試合でフルスイングするために、1日何百回もバットを振っている。だったらフルスイングさせなきゃいいと。泳がしたり詰まらせたり、ともかくバッターに気持ちよくバットを振らせない。学生時代は、そんなことばかり考えていましたよ。

 

――バッテリーを組んだ田淵さんとのコンビネーションはいかがでしたか?
山中 あの人は、本当にいい人です。1年先輩ですが、友達感覚で付き合ってもらいました。ある時、ひとつ先輩の星野仙一さんから言われましたよ。「オマエはブチがキャッチャーでよかったな。明治で先輩のキャッチャーのサインに首でも振ろうものなら、合宿所でボコボコにされるぞ」とね(笑)。

 

――ところでプロに入る意思は全くなかったんですか?
山中 私が大学4年の4月です。「山中、住友金属入社」という記事が出たんです。だから、それからはプロの話が出ても「とてもプロ野球には行けません」とかわしていました。

 

――小柄なサウスポーという点では早大から大昭和製紙、そしてヤクルトに入った安田猛がいます。現役時代は“王(貞治)キラー”として名を馳せ、プロで93勝17セーブの記録を残しています。72年と73年の最優秀防御率投手です。山中さんも安田さんくらいはやれたのでは、という関係者もいます。
山中 いやいや、ヤスの方が上ですよ。ただひとつ、知られていない話があるんです。

 

――ほほーっ、興味があります。
山中 僕はバッティングもよかった。3年の春には3割8分近く打っています。その頃、プロで永淵洋三さんという小柄な左打者が活躍していました。私はあの人に少し似ているところがあった。

 

――水島新司さんの野球漫画「あぶさん」のモデルですね。佐賀高、東芝を経由して68年に近鉄に入団。当初は投打両面で活躍しました。69年には首位打者に輝いています。
山中 永淵さんも小柄なサウスポーでした。当時は“二刀流”の選手が他にもいました。だから僕にもある球団から「ピッチャーとバッター両方やらないか?」と誘いがきたことがあるんです。

 

――大谷翔平の“先輩”になっていましたね。
山中 アハハハ。六大学では2回も代打に起用されているんですよ。これなんて知らないでしょう(笑)。

(つづく)