アンディ・シビーロという身長2メートル1の大男が巨人の入団テストを受けるため宮崎にやってきた。シビーロの来日で一躍、脚光を浴びているのが巨人OBでプロレスラーとして大活躍したジャイアント馬場(本名・馬場正平=故人)さんである。

 馬場さんといえば、プロレスラー時代のニックネームは“東洋の巨人”。身長2メートル9もあった。馬場さんに取材で初めて会った時のことは今でもよく覚えている。

 待ち合わせ場所は馬場さんが定宿にしていた東京・赤坂のあるホテル。奥にティールームがあり、馬場さんは奥の方のソファに深々と腰かけていた。遠くからでも馬場さんの姿はすぐに確認できた。目を疑ったのは馬場さんの飲み物だ。親指と人さし指でカップのとっての部分をつまみ、チュッと中のものをすすっているのだ。

「なぜ、この人はミルクピッチャーを飲んでいるんだろう……」。近づいてみて驚いた。というより納得した。馬場さんがつまんでいたのは普通のコーヒーカップだった。あまりにも手が大きく、指が長いため私の目にはミルクピッチャーに見えてしまったのだ。

 巨人時代のことも、よく話してくれた。馬場さんは巨人には5年間しか在籍していないが、決して悪い投手ではなかった。2軍では最優秀投手にも輝いている。1軍では3試合に登板したのみだが、通算防御率は1.29。重い球質が持ち味で当時の書物は「馬場のボールを前に飛ばすのは至難の業」と記している。

「なぜ登板機会に恵まれなかったのですか?」そう問うと馬場さんは例のボソッとした口調でこう答えた。「当時はね、新潟県出身のプロ野球選手は珍しかったんだ。だから可愛がってくれる先輩も少なくてね。特に巨人は名門校の出身者が多いから人間関係には敏感だった。ボクはそのへんで後れをとったんだろうね」

 しかし結果的には巨人を自由契約になり、入団内定が出ていた大洋の宿舎の風呂場で転倒、野球を断念せざるを得なかったことが、“東洋の巨人”を生むきっかけになった。禍福は糾える縄の如しである。

 もしシビーロがテストに合格した暁には背番号59(現在は深沢和帆)をつけてほしい。馬場さんがあの大きな背中で5年間、背負った伝説の番号である。

<この原稿は07年11月7日付『スポーツニッポン』に掲載されています>

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