世に「怪腕」や「剛腕」と呼ばれたピッチャーは数多(あまた)いるが、「鉄腕」とうたわれたのは、後にも先にも稲尾和久さんただひとりだ。
 稲尾さんと最後にお会いしたのは今年2月。金沢市で行われた食のイベントでご一緒させてもらった。ひとつ頼みごとをした。開幕前の「北信越BCリーグ」に気になる投手がいた。


「プロの心得を教えてもらえませんか?」。そうお願いすると、稲尾さんは「よし、わかった」と言い、心得ばかりかフォームまで指導していただいた。その選手は感激のあまり、こう語ったものだ。「僕もうれしかったけど、僕の父親に言ったら、もっと感動すると思います」

 神様、仏様、稲尾様――。276勝137敗という成績もさることながら、3599イニングを投げて通算防御率1.98という数字は野球の常識において、ちょっと考えられない。
「鉄腕」の最大の武器は「針の穴をも通す」といわれた絶妙のコントロール。本人によれば、これはルーキー時代、打撃投手ばかりやらされたことで磨き上げられていったという。

「言ってみれば手動式練習機ですよ。ボールが続くと怒られ、ストライクばかり投げると“疲れるじゃないか”といってまた怒られる。この過酷な環境から抜け出すには、自らの腕を磨くしかなかったんです」

 いつも快く取材に応じていただいた。忘れられないのは3連敗からの4連勝、西鉄が巨人を下した伝説の日本シリーズ(1958年)の後日談だ。稲尾さんは7戦中6試合に登板して4勝をあげ、シリーズのMVPに輝いた。

 西鉄の指揮官だった三原脩さんが日本ハムの球団社長に就任して間もなくのことだ。稲尾さんはグラウンドで三原さんから、いきなり切り出される。
「キミには謝らなければならないことがあるんだ」
「謝る? 何をですか?」
 三原さんはうつむき気味に、こう語ったという。
「なぜ、あのシリーズでキミを連投させたかと言えば、“稲尾で負ければ皆、納得してくれる”と思ったからなんだよ。こんなのは作戦とは言えないんだ。キミには本当に悪いことをした」
 伝説の日本シリーズから16年目の告白だった。

 まさか、こんなに早くお亡くなりになるとは…。昭和がまた遠ざかっていく。合掌。

<この原稿は07年11月14日付『スポーツニッポン』に掲載されています>

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