連敗は免れた。勝ち点3も獲得した。そのことに安堵した人は少なくないだろうし、実はわたしもその一人だ。だが、一晩明けて改めて考えてみると、結果以外はほとんど得るところのない試合だった、といわざるを得ない。

 

 最終目標がW杯に出場すること、なのであれば結果さえ手にできればいい。実際、中国がやったのはそういう試合だった。

 

 どういうわけか、彼らには日本のユニホームがカナリア色に見えたらしい。やろうとしたのは、オマーンのように勇敢に立ち向かうことではなく、ただ逃げ回ることだけだった。個人的には「かくも卑屈なサッカーで出場権を獲得したとして、いかに本大会を戦うつもりなのか」と思ってしまうが、出ることだけを目標とする人たちからすれば、大きなお世話だろう。実際、中国の李鉄監督は「内容にはすごく満足」とのコメントを残している。

 

 日本は違う。勝つだけでなく、本大会で戦う上での自信を積み重ねていかなければならない。

 

 では、ミャンマーやモンゴルよりも臆病に見えた中国を1-0で下したことで、日本の選手たちは自信をつかめただろうか。大丈夫、これならば本大会でもやれる、との手応えを得ただろうか。つかめたはずがない。得られたはずがない。

 だがら、この1-0は、勝ち点3は、ドーハで漢方薬をいただいた、とでも考えることにする。薬はマイナスをゼロに近づけるものであっても、ゼロをプラスに転じさせるものではない。オマーン戦で大きく傷ついた自信を、少しだけ元に戻すことができた。いわば、リハビリとしての試合だったのだ、と。

 

 正直、もう少し何とかできなかったのか、との思いがないわけではない。特に、中国が自陣の左サイドの守りを信じられないほどルーズにしていたのだから、室屋にはもっと積極的に仕掛けてほしかった。あれほどわかりやすい“穴”を目の前にして、利用しないのはお上品に過ぎる。

 

 ただ、何より強く感じたのは、チームが新たな秩序への移行期にあるのかな、ということだった。

 

 久保のプレーが日本の攻めにアクセントを加えていたのは間違いない。だが、五輪での日本が“久保に合わせる”ことを暗黙の了解としていたのに対し、最終予選での日本には、久保に合わせようとする選手と、久保が合わせてくれることを前提に動いている選手が同居している。端的に言えば、久保を中心選手と考えるか、有望な若手の一人と考えるか、である。

 

 シュートやドリブルといった場面では光るものを見せた久保だったが、ことパスに関しては落第点をつけたくなるほどズレる場面が多かった。中心であることに慣れた選手が、中心ではない立場に戸惑ったがゆえの現象にわたしには見えた。

 

 もっとも、この点に関してはさほど心配していない。言ってみれば甲殻類の脱皮のようなもので、世代交代の際にはどんなチームにも起こる現象だからだ。

 

 時間が経てば、誰がチームの軸になるかは自然と定まっていく。だが、来月戦うのがサウジとオーストラリアであることを考えると、のんびりもしていられない。

 

 指揮官たる森保監督の姿勢が重要になってくる。

 

 傷は癒えた。だが、それで満足していたら、次はない。

 

<この原稿は21年9月9日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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