白鵬は博識である。加えて研究熱心である。時折、予測もつかない問いを投げてよこし、こちらを困らせる。この時もそうだった。

 

「二宮さん、タキサイキア現象って知ってますか?」「タキサイキア?」「聞いたことないですか?」「(イタリアンレストランの)サイゼリヤなら知ってますけど…」。もうお話にならない。

 

 ここは居住まいを正して教えを乞うしかない。「人間は死に直面すると、目の前のことがゆっくり進むように感じられるというんです。交通事故に遭った時などがそれで、脳がフル回転した時に起きる現象だと。僕がそのことを知ったのは2018年くらい。僕はずっと相撲に負けることは死だと思っていた。どうしても勝ちたい。だから工夫する。横綱になってからは、余計にそのことを意識するようになりましたね」

 

 調べると「タキサイキア」とはギリシャ語由来の言葉で「突発的に危険な状態に陥った時、一瞬、まわりがスローモーションに見える」現象のことを言うらしい。

 

「相撲も同じです」と白鵬。「相手の動きがコマ送りのようにゆっくりと見える。もう手に取るようにわかるんです」

 

 そう言えば、“打撃の神様”と呼ばれた川上哲治は「ボールが止まって見える」という名言を残している。これについても白鵬は「川上さんは自分に向かって飛んでくるものはボールではなく包丁か斧だと考えていたのではないか」と独自の見解を披露する。「川上さんは打ち取られたら死ぬんだ、という思いでやっていた。だから“ボールが止まって見えた”んですよ、きっと…」

 

 誰よりも勝ちにこだわった。強い横綱にこだわった。しかし、勝負に徹するあまり、手段を選ばぬ相撲は、時に批判の的ともなった。「横綱の品格に欠ける」と。

 

 進退をかけて臨んだ名古屋場所。白鵬は大方の予想を覆し、15戦全勝で45回目の優勝を果たした。「今の右ひざの状態では15日間持たない」。場所前、そう危機感を抱いた白鵬は踏み込み足をいつもの左足から右足にかえた。軸足への負担を軽減するためだ。14日目の大関・正代戦は立ち合い、徳俵に足がかかりそうな位置にまで下がり、「これが横綱相撲か」と物議をかもした。

 

 ともに全勝で迎えた千秋楽の大関(現横綱)照ノ富士戦、白鵬はこの場所初めて左足で踏み込んだ。壊れてもいいと退路を断ったのだろう。肘打ちのようなかち上げに張り手、そして情け容赦のない小手投げ。そこには鬼がいた。断末魔の鬼がいた。

 

<この原稿は21年9月29日付『スポーツニッポン』に掲載されたものです>


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