新総裁・岸田文雄氏×二宮清純 ~特別対談~

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 9月29日、岸田文雄前政調会長が自由民主党第27代総裁に選出された。岸田氏は政界きっての広島カープファンとして知られる。昨年11月、岸田氏との“赤党対談”を掲載する。

 

<この原稿は広島アスリートマガジン2021年1月号に掲載されたものです>

 

二宮: 岸田さんはプロフィールを見ると1957年7月29日生まれですから、私より3歳上、学年では2つ上です。

岸田: 二宮さんは?

 

二宮: 私は1960年2月25日生まれです。

岸田: 愛媛県のご出身とか。

 

二宮: 私は愛媛県の八幡浜という港町の出身なんですが、小学生の頃は巨人ファンでした。なぜなら、当時、愛媛県には民放局が日本テレビ系列の一局しかなかったからです。巨人のV9がスタートしたのが1965年ですから、誰もが強い巨人に憧れます。まさに「巨人・大鵬・卵焼き」の時代です。

岸田: それがなぜカープファンに?

 

二宮: 中学生になったお祝いに、父親からトランジスタラジオを買ってもらったんです。当時は深夜放送が大ブームで、それが聞きたかった。ところが地元のラジオ局の電波が悪く、逆に瀬戸内海の向こうから流れてくる中国放送の電波の方がよく入るんです。カープ戦のアナウンサーは上野隆鉱さん、鈴木伸宏さん。解説者は金山次郎さん、長谷川良平さん、横溝桂さん。もう贔屓の引き倒し。こんなおもしろい中継があるのかと毎晩聞いているうちに、いつのまにかカープファンに転向してしまいました。いや、洗脳とは恐ろしいものですね(笑)。

岸田: アハハハ。いや私もラジオでよくカープ戦を聞いたなぁ。私は父親の影響もあって物心つく頃からのカープファンですが、東京に住んでいたものだから地元の実況が聴けない。それに当時はカープ戦の実況は東京では、あまりやっていなかった。ところが、耳を澄ませると、かろうじて名古屋のラジオの電波だけは東京にも届くんです。それでラジオに耳を近付け、カープ対ドラゴンズ戦をよく聞いていましたね。まぁ私が少年の頃といったら、カープは負けてばかりいましたけど(笑)。

 

二宮: これまでで一番印象に残っている試合は?

岸田: そりゃ球団創設26年目での初優勝でしょう。忘れもしない1975年10月15日、私は後楽園球場のジャンボスタンドにいたんです。私は高校3年生。あまり大きな声では言えませんが、授業を抜け出して後楽園に行ったんです。

 

二宮: あの試合をナマでご覧になったんですか。羨ましいなぁ。

岸田: ですから9回表に飛び出したゲイル・ホプキンスのライトスタンドへのとどめの3ランホームラン。あれもはっきりこの目で見ましたよ。

 

二宮: あれで4対0。事実上、リーグ優勝を決めるホームランでしたね。

岸田: 最後は巨人の柴田勲がレフトフライ。水谷実雄が捕ったんですよね。

 

二宮: そうです。8回途中からピッチャーは金城基泰に代わっていました。金城は前年、20勝をあげて最多勝に輝きながら、オフに交通事故に遭い、再起が危ぶまれていました。

岸田: そういうこともありましたね。最後のフライも間近で見た。優勝決定の瞬間をナマで見たのは私の人生において、一生の自慢なんです。こんな経験、2度とできないでしょうね。

 

二宮: 1975年当時、東京にカープファンは少なかったのでは?

岸田: そうですよ。スポーツ店に行っても野球帽はジャイアンツかタイガースのものしか売っていないんだから。カープの帽子なんてどこを探してもありません。二宮さんはご存知でしょうけど、当時のカープの帽子は紺色でマークは広島のHなんです。同じように阪急もHだった。ところが同じHでもかたちが違うんです。阪急のHが四角いのに対し、カープは丸い。花文字のようなデザインでしたね。

 

二宮: それで、どうやって見つけたんですか?

岸田: いや、見つからないので自分でつくりましたよ。紺色の帽子を買ってきて、オフクロに丸いHを切り抜いてもらい、それを張りつけるんです。私はそれを被って通学していましたよ。

 

二宮: 当時は野球帽と言えば巨人のYGマークばかりで、小学生の頃、大阪からの転校生が阪神の帽子を被って学校にやってくる前までは、YGマークの帽子が制帽だと思っていました。巨人は帽子だけで相当儲けたでしょうね。ところで贔屓の選手は?

岸田: 僕が小学生、中学生の頃、カープは5位、6位ばかりだった。だから、とにかくジャイアンツだけには勝って欲しいと。王貞治と長嶋茂雄に夢をズタズタにされた少年にとって、希望の星といえば外木場義郎と安仁屋宗八ですね。彼らが投げる時だけ期待がもてましたから。

 

二宮: バッターでは?

岸田: タイガースから山内一弘が移籍したのはいつ頃ですか?

 

二宮: 1968年です。過去ホームラン王2回、打点王4回の強打者の移籍ですから大変、話題になりました。カープ移籍1年目に130試合フルに出場し、打率3割1分3厘、21本塁打、69打点と好成績をあげています。この年、初めてカープはAクラス(3位)に入りました。当時の根本陸夫監督は「山内がこなかったらAクラスはなかった」と語っていました。

岸田: あの頃からですよね、カープの若手が育ち始めたのは。山本浩二、衣笠祥雄、水谷実雄、三村敏之……。山内は年齢的にはピークを過ぎていたんでしょうけど、枯れたいい味を出していましたね。やはりチームを強くする上で実績のあるベテランの存在は必要ですね。

 

二宮: 全く同感です。先頃、ホークスの内川聖一が自由契約となりました。セ・パ両リーグで首位打者経験のある内川の打撃技術は球界屈指です。後輩たちには“生きた教材”となるはず。ぜひ獲得してもらいたい。

岸田: 確かに実績のあるベテランの存在は若い選手にとって心強いでしょうね。二宮さんがカープ再生のために“ベテランを!”という気持ちはよくわかります。

 

二宮: 下位に低迷する今季のカープをどう見ていますか?

岸田: やはりピッチャーでしょうね。ルーキーの森下暢仁はよく頑張ったけど、先発のクリス・ジョンソンと大瀬良大地が誤算だった。それに中継ぎ、抑えがよくなかった。ブルペンが持ちこたえられなくて負けた試合を何度か見ましたよ。

 

二宮: 総裁選などで多忙を極める中、カープの試合だけはしっかりチェックされていたんですね(笑)。確かにブルペンが持ちこたえられない試合が多かった。開幕前からカープはブルペンが不安視されていましたが、残念ながらその通りの結果になってしまいましたね。私の大好きな評論家・権藤博さんの言葉に“夕立の傘”というものがあります。リリーフは夕立の傘と一緒で、雨が降り始めてからでは遅い。空模様が怪しくなったら、パッと差さなければならないと。その意味では投手交代が後手後手に回る展開が多かったような気がしています。

岸田: 佐々岡真司監督はピッチャー出身だから、継投に関しては私も期待していました。まぁ来年はそれを反省材料にして、しっかりやってくれるでしょう。

 

二宮: ところで岸田さんは小学校1年から3年生までニューヨークで過ごされているんですね。メジャーリーグもご覧になりましたか?

岸田: えぇ、よく行きましたよ。ヤンキースタジアムには行った記憶がないけど、メッツの本拠地であるシェイスタジアムにはよく足を運びました。ニューヨークも広島と同じく野球が盛んでね。僕のまわりはヤンキースファンばかりでした。今でも覚えているのは南海からサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍した村上雅則。よくテレビで見ていましたよ。

 

二宮: マッシー村上は1964年と65年の2年間、ジャイアンツで主にリリーフとして活躍しました。岸田さんが7歳か8歳の頃ですね。

岸田: 日本人初のメジャーリーガーですから、僕ら日本の少年にとっては誇りでしたね。そういえば、僕が外務大臣をしている頃、駐日大使のキャロライン・ケネディと野球の話で盛り上がったことがあるんです。

 

二宮: 彼女はジョン・F・ケネディの長女ですね。

岸田: そうです。彼女はボストン・レッドソックスの大ファンなんです。ケネディ家といえばボストンの名門で、レッドソックスが7回に「スイート・キャロライン」という歌を流すでしょう。「あれは私の歌よ」と言っていました。

 

二宮: あれはニール・ダイヤモンドの歌ですよね。私も何度か取材でフェンウェイ・パークに足を運びましたが、まさか彼女の歌とは知りませんでした。

岸田: それでキャロラインが大使に就任してきた2013年の11月、彼女の誕生日に互いの夫婦4人で食事をしたんです。その時に最も盛り上がったのが野球の話。2013年といえばレッドソックスがワールドチャンピオンになった年。翻って我がカープは3位。お互いのチームカラーは赤だし、いずれチャンピオン同士で戦おうなんて話をしたもんですよ。

 

二宮: 岸田さんは2016年3月、セ・リーグの公式戦で始球式に“登板”したこともありました。

岸田: マツダスタジアムでのカープ対ベイスターズ戦です。ちょうど4月にG7の外相会合を広島でやる予定になっていた。そのPRの意味も兼ねてマウンドに立ったんです。キャッチャーは松井一實市長。背番号は“G7”でした(笑)。

 

二宮: 岸田さんは元高校球児ですから、いいボールが行ったんでしょう?

岸田: いや、かろうじて届くか届かないか。久しぶりに握った硬球は重かった。一応、キャッチボールもやったんですけど、あまり効果なかったみたいですね。

 

二宮: アハハハ。では再チャレンジに期待します。今日はキャロライン・ケネディとの“秘話”など貴重な話をありがとうございました。カープは市民球団として出発し、球団の存亡の危機に際しては、樽募金に代表される後援金制度で命脈を保つことができました。そうした歴史的な背景もあり、球団と選手、そしてファンが最も近いチームと言えるでしょう。Jリーグ初代チェアマンの川淵三郎がJリーグを創設するに際し、「地域密着」を旗印に掲げたのですが、カープをモデルにしたのは広く知られるところです。最後にカープにエールを。

岸田: ウチは家族全員カープファンです。家庭内で“対立”がないため、野球でストレスがたまることは、まずありませんね。あとは勝ってくれることを願うだけ。二宮さんが言われるようにカープはプロ野球というより、ある意味、日本のプロスポーツ界最初の“地域密着型”のチーム。このモデルケースをさらに発展させるためにはフロント、選手、ファンが一体となって努力することが重要になってくると思われます。

 

二宮: 岸田さんのご著書『岸田ビジョン』(講談社)のサブタイトルは<分断から協調へ>です。

岸田: そうです。皆に親しまれるカープこそは協調のシンボルです。

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