アテネ五輪の男子柔道100キロ超級で金メダルを獲得した鈴木桂治さんが、パリ五輪を目指す柔道男子の監督に選任されたという。

 

 まず思い浮かんだのは「火中の栗」という言葉。地元の利のない3年後のパリで、この夏並みの結果を残すのは、まあ簡単なことではない。無論、ご本人なりの勝算なり覚悟があっての受諾なのだろうが、リスクの大きさは想像して余りある。

 

 と、そこでふと思った。

 

 (柔道の監督って、何をするんだろ)

 

 団体戦が導入されたとはいえ、五輪における柔道は基本、個人種目である。勝つか負けるかは本人次第。監督の存在や采配が展開や内容にどれだけ影響を与えるものなのか。間違いなく言えるのは、野球における監督やサッカーにおける監督とは、役割も責任もかなり違うということである。

 

 で、そこでさらなる疑問が湧いてきた。

 

 (監督って、そもそも何?)

 

 日本ではクラブを率いる人間も、代表のトップも、「監督」という単語で一緒くたにされてしまっているが、たとえばスペインの場合、クラブの「監督」は「エントレナドール(練習させる人)」で、代表「監督」は「セレクシオナドール(選ぶ人)」と、完全に別物扱いになっている。

 

 同じ競技であっても、求められるものの異なる職種に、それぞれの呼称を与えている国や地域がある一方で、日本の場合はクラブも代表も、もっと言うなら野球も、バレーボールも、全部同じ「監督」という言葉で片づけられてしまっている。競技が変われば、求められる条件や資質もまた変わってくるはずなのに。

 

 考えてみると、これほど雑な言葉の使い方をしている社会は、とかくきめ細やかさが求められがちな日本においては珍しい。

 

 もし、どこかのある会社で、係長を測る物差しをすべての職種の責任者に適用したらどうなるだろう。社長の良し悪しも係長の物差しで測るのだ。明治、大正、昭和から令和の時代に至るまで、日本のスポーツ界が常識としてきてしまったのは、そういうこと。

 

 いや、ちょっと待て。島耕作は係長でも課長でも社長でも島耕作だった。係長を測る物差しを、社長に当てはめてみるのも案外悪くないのかもしれない。これは例として不適当だった。

 

 とはいえ、クラブを率いる人も、代表を率いる人も、野球を率いる人も、バレーを率いる人も、柔道を率いる人も、ぜ~んぶ監督。これだけでも十分乱暴なのに、現在の日本語においては、クラブを率いる人が、映画を作る人とも同じ呼称で括られてしまう。つまり、鬼木達と庵野秀明は同業者ということになる。これはさすがにいかがなものか。

 

 たかが呼称の問題、と笑うことなかれ。なぜJリーグ発足時、立ち上げに関わった人たちは組織のトップを手垢のついた「会長」という呼称ではなく、「チェアマン」という言葉で表現しようとしたのか。言葉の響きや印象が、組織にとって大きな意味を持っていると考えたからではなかったか。

 

 そして、その判断は無意味だっただろうか。

 

 「選ぶ人」と「練習させる人」を無邪気に混同し、平然と森保監督を否定する意見に接するたび、「監督」という呼称が横行することの弊害を痛感する。ちなみに森保「監督」が就任以来残してきた勝率は、ここまでのところ、日本歴代最高である。

 

<この原稿は21年10月1日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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