森保監督はダメだ。

 

 そう言い切る後輩ライターがいる。理由はまあ、詳しく説明する必要もあるまい。試合内容に魅力がない。采配が遅い。あまりの不人気でファンの代表離れを呼んでいる……などなど。

 

 大方のファンが抱いている不満と大して変わりはない。

 

 ただ、ちょっと興味深いと思ったのは、森保監督を否定する材料の一つとして、オマーン戦での采配を挙げていたことだった。

 

 ご存知の通り、あの試合での森保監督は珍しく後半開始と同時に動いた。その選手交代が、実は森保監督の決断によるものというよりは、選手たちの声に突き動かされたものだった、というのである。

 

「選手の意見に耳を傾ける、というのはある意味凄いと思いますけど、戦術や采配の部分まで選手に委ねてしまったら、選手は自分の力以上のものは出せないじゃないですか。やり方として、根本的に間違っていると思います」

 

 なるほど、彼の言い分もわからないではない。歴代の、そして各年代、各カテゴリーで「監督」という立場に身を置いた方たちの平均値、常識と比較すると、選手に意見を求めてしまう森保監督に合格点はつけにくい。

 

「監督」として、ならば。

 

 翻訳ソフトに「監督」と入力してみると、びっくりするほど多くの用例が出てくる。ディレクター、スーパーバイザー、マネジャー、それからヘッドコーチ。「プレーヤー」しか出てこない「選手」との違いは歴然としている。それぐらい、さまざまな業種、職種を一括りにしてしまっているのが日本における「監督」という言葉なのだとわたしは思う。

 

 さらに言うなら、「監督と選手」という関係を「ヘッドコーチとプレーヤー」という関係は、必ずしもイコールではない。英語でならばほぼフラットに近い両者の関係は、日本語に直すと途端に縦関係の印象を帯びる。

 

 日本ハムの指揮官に就任した新庄剛志は「監督ではなくビッグボスと呼んで」と言って話題を呼んだ。おそらくは彼も、日本語の「監督」という言葉が持つ意味あいに違和感があったのでは、と推察する。

 

 ラグビーの日本代表を率いたエディー・ジョーンズによれば、ラグビーの場合、「監督」という立場は、「指揮する者」という時代から、「ガイド」に近い役割が求められつつあるという。「コーチ=監督」ではなく、「コーチ=助言者、メンター」になりつつある、というのだ。

 

 言われてみれば、彼のチームが南アフリカを相手に歴史的番狂わせを演じた時、選手たちは監督たるエディーの指示に従わなかった。ペナルティーで同点を狙えという指示を公然と無視され、ゆえに伝説的なトライは生まれた。「監督と選手」という関係では許されない、「助言者と選手」だからこそできたことだった。

 

 今年の欧州選手権を制したイタリアに密着したドキュメンタリーが、ネットフリックスで公開されている。もちろん、映し出されていないものも多々あるのだろうが、ホワイトボードを使ったマンチーニ監督の指示はびっくりするほど簡潔で、選手たちとの関係は、確かに「助言者と選手」に近い。

 

 というわけで、森保監督はダメだとおっしゃる皆さん、ここは一つ、「監督」という物差しを外して見てみませんか? それでもダメだというのであれば、それはそれで尊重しますが。

 

<この原稿は21年12月16日付「スポーツニッポン」に掲載されています>


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