「オレも、もう少し若かったらなァ……」
 人生の大切な局面において決断できなかった理由を、年齢のせいにする人間に仕事のできる者はいない。
 日本のラグビー界においてプロ第一号となり、フランスのラグビーリーグでプレーする村田亙が本場のラグビーを意識するようになったのは、‘91年の第2回ワールドカップ直後のことだった。
「スコットランド戦で僕が出場したのですが、この試合がヨーロッパ記者にかなり評価されたようなんです。当時、日本代表の監督をしていた宿沢広朗さんのもとにも、スコットランドのクラブからオファーがありました。その時、初めて海外を意識しました。あぁ、オレも認められているんだなァ。いつか行ってみたいなって……」

 村田のポジションはスクラムハーフ。22歳で代表入りし、将来を嘱望された。
 専修大を卒業後、東日本社会人リーグの東芝府中に入り、‘96年度からの日本選手権3連覇に大きく貢献した。これまでの代表キャップ数は24。日本を代表するスクラムハーフと言っても過言ではない。

 ‘95年、日本ラグビー界はアイデンティティ喪失の危機に襲われる。南アフリカで開かれた第3回ワールドカップでニュージーランドに145対17と歴史的な惨敗を喫してしまうのだ。無慈悲なまでに踏み潰されたメンバーの中には村田もいた。
「あのショックは大きかった。正直いって日本人にはラグビーが向いてないんじゃないかとさえ思った。しばらくはラグビーボールを見るのさえ嫌でしたよ」

 世界との壁を身を持って知るには、プレーの場所を、海外に求めるしかない。そう考えた村田はヨーロッパをまわり自らを必要としているクラブを探した。
「ぜひキミが欲しい」
 熱心な口調でそう口説いたのはフランスの「アビロン・バイヨンヌ」の責任者ピエール・ドスピタルだった。
 振り返って村田は言う。
「最終的にイタリアのボローニャとバイヨンヌ、どっちにしようか迷ったのですが、決め手になったのは“ウチのクラブはカネはないけどラグビーには純粋に取り組んでいる”というドスピタルのセリフ。それにバイヨンヌという町は人口4万人程度の小さな町なのですが、海がすぐ近くにあって自然環境も整っている。その景色の良さにも魅かれました」

 もちろん、会社からは引き止めにあった。
 東芝府中の向井昭吾監督は「ちょっと考えた方がいいんじゃないか。オマエも、もうそんな年じゃないだろう」と諭すように言った。
 そうした説得にもかかわらず村田は決意を翻さなかった。むしろ、31歳の今だからこそ、一日でも早く海外でプレーしたいという気持ちが強かった。

 ‘99年11月、村田は9年間勤めた会社を辞めた。あと一週間長く勤めていたら、10年間の勤務が認められボーナスがもらえるところだったが、海外にチャレンジする決意を固めた村田に、もはや会社への未練はなかった。
 村田を受け入れた「アビロン・バイヨンヌ」はフランス選手権の2部リーグに所属していた。バイヨンヌはバスク人が多く住む町で、フランス語の他にバスク語も公用語になっていた。

 試合中のサインは「相手にわからない」という理由でバスク語が使われた。スクラムハーフというポジションは、とりわけコミュニケーションを必要とする。言葉のままならない村田にとって、フランス語とバスク語の洗礼は相手から受けるタックル以上にこたえた。
「たとえばバスク語で右はバイ、左はイスというんです。とりあえず基本的な言葉を1週間でマスターし、あとは体で示そうと。やれるだけやってみようという気持ちでしたね」

 渡仏して1週間後の12月5日、村田は「アビロン・バイヨンヌ」の本拠地・ジャン・ドジェ競技場のピッチに立った。
 迎え討つ相手はラヌムザン。観客のすべての視線が、小柄な異邦人に注がれた。
 前半2分、早くも村田に見せ場が訪れた。ゴール前のスクラムで村田のサインに従いナンバー8が突進した。再び渡ったボールを村田はバックスに回さず、自ら持ち込んだ。一瞬の判断だった。
「最初はバックスに回す予定だったんですが、投げようとしたと思った時には、もう体が反応していた。狙ってとったトライじゃない。体が勝手に動いたトライでした」

 勢いに乗った村田は5分にもトライを決め、10分にはナンバー8とのクロスパスでトライを演出した。まさに衝撃のデビューだった。
「皆、アレッて感じだったんじゃないですか。誰がトライとったのって雰囲気がありました。
 観客の盛り上がりは、もう最高でした。“ムラ〜タ、2トライ連続”というアナウンスが流れたんですが、その瞬間、4千人ほどのスタンドがガッと盛り上がりましたね。まさか、こんなにうまくいくとは思ってもいなかったので、後で自分で怖くなったくらいです」

 ラグビーの研鑽とともに、村田にはもうひとつ渡仏の目的があった。それは「地域」が中心となったスポーツクラブのあり方を学ぶことだった。
「バイヨンヌは小さな町ですが、それでもクラブには17の競技があるんです。ほんとに地域一体というか、試合後には“ドロァ・ザ・マッチ”(第3の試合)が待っている。要するにファンの人たちとスタンドの裏で試合を振り返りながらビールを飲むんです。そのあとクラブハウスに移動してワインを飲み、一緒に食事をする。こういう一体感は日本にいては、なかなか味わえない。クラブの中には柔道もあるのですが、3歳になったら、うちの娘も入れようと考えているところです。なにしろ年間、数千円の施設使用料で誰もがスポーツを楽しむことができるのですから……」

 楕円球を追い続けいているうちに、気がつくと南仏の地にやってきていた。9月、2年目のシーズンが始まる。

<この原稿は2000年9月20日号『ビッグコミックオリジナル』(小学館)に掲載されたものです>


◎バックナンバーはこちらから